大西康之「流山がすごい」
失礼を承知で言う。「流山がすごい」ってタイトルを見て、確かに内容は気になった。けれど、読んで本当にそう思えるのかな、と思った。住みたい街ランキングなんか公表もされないような自治体に住んでいて、人口増加率ランキングだって、どうにか真ん中よりは少し上というレベルで数値そのものはマイナス、転出超過な状況だけれど、それでも「うちの市だってすごいところがたくさんある」という気持ちがあるのだ。
今年の3月、次男が「アンネ・フランクと旅する日記」を見たいと言った。調べてみると近場で上映しているところはなくて、県内だったら、流山だけだった。住んでいる場所から行くには2回の乗り換えが必要だけれど、小1と小4だけを連れていくなら行けないこともない。流山はどんなところか見てみたい気持ちもあった。「母になるなら、流山市。」という言葉は前から聞いたことがあったし、当時携わっていた公共資産マネジメント分野でも先進的な取り組みを行っていた。
とはいえ、あまり下調べをする時間もなく、とりあえずシネコンのある建物に入ることにした。お休みの日の昼時、混雑しているだろうな、と思っていたけれど、予想以上で、飲食店はどこも行列だった。仕方なく総菜パンを買って食べることにした。といっても、この総菜パンたちもすごく素敵で、お高めではあったけれど、心から満足できる内容だった。やっぱり人がどんどん集まって話題になる場所には、こんな風にしっかりとした店が入るんだろうな、と考えたりもした。
けれど、何かが違うんだよな、と感じた。例えば自分が仕事とか関係なく、まだ済む場所も購入していなくて、自由に住む場所を選べるとしても、ここには住むことを選ぶだろうか、と考えた。職場は決まっているし、既に分譲マンションだし、子どもたちもそれぞれ学校があって、という状況で、想像力を働かせる余地がないというのもあったけれど、あまり実感が湧かなかった。
タイトルにすごい、って書かれているからといって、読んだ後、「流山がすごい」って思わなくても良いのかもしれないけれど、何だかそう思えなかったらどうしよう、という妙な不安感を持ちながら、本を開いた。
けれどそんな心配は杞憂に終わった。
最初に「送迎保育ステーション」の話題から始まる。「母になるなら、流山市」らしい行政サービスの紹介に始まり、流山市の子育て施策のレベルをここまで引き上げた様々な人物が登場する。特に2003年から19年間市長を務めている井崎氏は、都市計画のプロだった。流山市のまちづくりの課題を感じつつも市民としての立場からはうまくコミットできず、ついには、誰もやらないなら自分がやるしかない、と市長選に出るところなどすごいと思った。その他の人たちもエネルギーがものすごい。
少しずつ流山の秘密が明かされていく中で、開発の最初のきっかけになったつくばエキスプレスの路線決定が決まった昭和60年まで時代はさかのぼる。その少し前に当時の市長だった秋元氏が田中角栄氏に陳情に行った様子などは、映画のワンシーンを思わせるほどの迫力があり、その後にもドラマチックな展開が待っていたりもした。
とにかく、人がすごいのだ。冒頭の方でも流山市の魅力は人、という言葉が出てくるけれど、まさにその通りで、それぞれが自分の個性を最大限に活かし、エネルギーとエネルギーが組み合わさって、ものすごい力になっていることが見えてくる。
最後の方で、リクルートを「卒業」して有機農業と農福連携のハイブリッドの取り組みを行う小野内氏のことが紹介されている。
リクルートでは「目の前に課題があったら、我が事と考え、実践でそれを乗り越えろ」と教えられる。江副が唱えた「圧倒的当事者意識」という考え方である。(中略)
江副は「会社がダメだから思い通りに働けない」「上司が分かってくれないから仕事ができない」と不満を漏らす社員にこういった。
「じゃあ君はどうしたいの?」
不満を口にする社員が「僕ならこうします」と言うと、江副はニヤリと笑いこう言うのだ。
「いいねえ。じゃあそれ、君がやって」
長年リクルートに勤めていた小野内氏にもこの「圧倒的当事者意識」がしみついていたという。けれど、これは小野内氏だけでなく、この本に登場する人物たち全て、そしておそらくここにも紹介されていない人達にも、圧倒的当事者意識で、流山での仕事に取り組んできた人がいたのだと思う。
だから、ものすごいパワーを発揮しているのだ。そしてそういう人たちのアーリーアダプターがいて、フォロワーがどんどん増えていく。みんな、流山市で当事者として生きているのだ。
私は多分、今いる場所の当事者だ。だから、それ以外のところには心を動かされないのかもしれない。でも課題をきちんと認識し、それをどう解決していくか、ということを考えなければいけないと考えた。
そして、この本を書いた大西氏も、市民とか市民活動とかは嫌いだったと書いているものの、流山市での圧倒的当事者意識を持って、この本を書いただと思う。日経新聞の記者であった氏は、実は井崎氏よりも1年前の1988年に流山市に住み始めていて、そこからずっと、流山市がここまで変貌する様子を見続けてきた。そしてただ見ているだけではなく、自分がすべきこと、それを記録し、世に知らしめることをしなければいけないと思ったのではないかなと想像する。そして、それだけではない、もっと大きな理由が、あとがきの中で触れられている。
確かに、流山はすごい。
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