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綾屋紗月・熊谷晋一郎「つながりの作法 同じでもなく違うでもなく」

この本は、アスペルガー症候群の診断を受けた綾屋氏と脳性まひの電動車いすユーザーの熊谷氏が書いたものです。テーマは「つながれないさみしさ」と「つながりすぎるくるしみ」について。アスペルガーは1%くらいとされていて、脳性まひ0.1%程度とされているので、そのどちらでもない人の方が多いと思います。ですが、この本に書かれたことをあらゆる人に読んでもらって、そのうち「やはり自分とは関係のないことだ」と心から思える人はどれくらいいるのだろうか、と考えてしまいます。

アスペルガーについても、脳性まひについても、ざっくりと、こんな感じ、という理解はしていたつもりでしたが、この本を読んで、その感覚的なことがよく分かりました。それぞれが、他人とのつながり、世界とのつながりにおいて、どのように感じてきたかがとても丁寧に書かれています。

バレーボール、バスケットボール、卓球、テニス、サッカー、ソフトボール。教室内でのおしゃべりというのはまるで、見た目も動きもさまざまないくつものボールが、それぞれのルールで狭い教室内を無軌道にものすごいスピードで飛び交うかのようだ。若いエネルギーの塊は時々空中でぶつかってはじけ飛び、大きな笑い声となる。それらのめまぐるしい動きに私は翻弄される。目で耳で、たくさんのボールの行方を追うでもなく追い続けているのだが、ちっともルールがわからない。

もちろん個々人によって感覚は異なり、これは綾屋氏の場合、ということになるのだと思います。

母親は私の欲求が立ち上がるや否や、すぐに何らかのケアをしてくれていた。そのケアによって、欲求は素早く解消された。もちろんすぐに解消できないこともあるので、逆に親のケアのタイミングに自分の欲求を合わせていたという面もある。

脳性まひについても、医学的な側面は普遍的なところが大きいのかもしれませんが、主な介助者である母親との関係については、熊谷氏のものなのだと思います。

二人は大学時代に知り合ったそうですが、そのときはまだ綾屋氏はアスペルガー症候群の診断を受けていませんでした。7年ぶりに再会し、綾屋氏は自分の感覚について言語化し、それを熊谷氏が聞き取ってノートにつづっていくということが始まります。この作業について熊谷氏の恩師に話したところ、「当事者研究」という言葉を知ることになります。
そして、ダルク女性ハウスやべてるの家で数日間体験することになります。

ダルク女性ハウスは、薬物やアルコール依存症から立ち直りたいと思う女性たちの集まりです。そこでは「私たちはアディクションに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」といった言葉が書かれたリーフレットを読み上げた後で、テーマに沿ってそれぞれが語りたいことを語る、それに対して否定することはもちろん、うなずいたり共感したりというフィードバックは行わず、「言いっぱなし、聞きっぱなし」、ただ最後に司会役が「ありがとうございました」というだけです。

また「べてるの家」は北海道の浦河町にある精神疾患を持つ人たちのコミュニティで、「三度の飯よりミーティング」の精神でミーティングを頻繁に行います。その人の経緯を知った中で見えてくるどうしても変えられない部分を、その人のキャラクターとして共有することで、「等身大のつながり」が生じるといいます。

それぞれの場所での体験を通じて、二人は、「つながりの作法」について整理した結果が次の4つになります。

  1. 世界や自己のイメージを共有すること

  2. 実験的日常を共有すること(正解がすでにあって、間違えたり失敗すると「裁かれる」試験の場ではないということ)

  3. 暫定的な『等身大の自分』を共有すること

  4. 「二重性」と「偶然性」で共感すること(お互いに差異はあるけれど同じだ、という共感を持つために、没入しているときと俯瞰している時があるなどの二重性や、今私が私であることは偶然のなせるわざであると認識すること) 

最後の一つに関しては、まだ私も消化しきれていません。

最後の章、弱さは終わらない、では、色んな感覚を自分の中にため込んで縮こまるのではなく、仲間への「説明責任」という発想で、話さなければいけないとしています。

長年、自分の感覚や言葉を無視されたり虐げられてきた者は「もうこれ以上拒絶されたくない」「不要な存在として他者から排除されたくない」と強烈な怯えを持つ(中略)
抱えている問題を開示せずに不機嫌に振る舞うことは、かえって共同生活者を脅かす。なぜなら共同生活者はその人の行動が読めなくなり、不確実性の渦に巻き込まれることになるからだ。(中略)
「これを言ったらこの人はあきれて離れていってしまうのではないか」とひどくおびえる。でも、話さずに相手を脅かすくらいなら震えながらでも自分が話すしかない。沈黙の暴力を振るわないために、私には話す「責任」があるのだ。

おそらく、この本そのものも、綾屋氏と熊谷氏の自らの感覚を語ることで、読む人とのつながろうとしているのだと思います。

さて、私はどこから話していこうか。

さらりと自分の気持ちをうまく伝えられる人はうらやましいなと思います。
私は他の人から見れば言いたいことを言っていると思われるのかもしれませんが、まだまだほんの一部しか言えてない気がしています。言いたいことを言ったら怒られるかもしれないと思い続けてきたからか、あるいは人並み外れて言いたいことがあり過ぎるからなのか。

うまく言葉はまとまりませんが、ただ一つ間違いなく言えることは、私にとって、ここに書かれたことを自分には関係のないことだ、とは少しも思わなかったということです。

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