見出し画像

中島隆信「新版 障害者の経済学」

障がいのある子どもが生まれた時、実の母親に「仕事辞めないとね」と言われました。そんなものなのだろうか、と思う一方で、決めつけるその言い方に腹が立ったのを覚えています。
とりあえず育休を3年に伸ばすことにしましたが、すぐに仕事を続ける決意はしていました。
実はその数年前に私は障害福祉の仕事に関わっていて、その時に、子どもに障害があっても働いている人はたくさんいました。私の仕事は、生まれた子供に障害があってもお母さんが(お父さんが)仕事を辞めなくてよい社会を作るものだったはず。もしここで辞めたら、その時の自分の仕事は何だったんだろうとむなしい気持ちになるだろうと考えたからです。

その下の子が生まれたことで計4年1ケ月の育児休暇を取った後、復帰しました。その頃には、子どもに障害があっても働いている母親がたくさんいることに気付いたのか、復帰することが当然のことになっていました。
そして、母親はかなりサポートをしてくれています。睡眠時間にばらつきがあり夜中に起きてしまう長男を月から木まで預かってくれているので、たまに月曜日は眠いことがあっても、どうにか乗り切れています。

仮に私が仕事をしていなければ、夫の収入だけで暮らすことになります。夫の収入の8割程度なので、半減します。生涯所得で見たら、かなりの差になるはずです。一方支出については、一部外注していることも私が自分でやることが増えるでしょうし、なんとかやりくりをして、貯蓄に回せるようにするでしょう。
今は自分の収入がある分、ランチに弁当を買ったり、読みたい本を買ったりしますが、ランチは自分でつくり、図書館で借りるようにして、控えるようになると思います。子どもたちにも今は欲しいと言われて、ちゃんと使いそうだな、と思ったら買ってあげたりしますが、その辺りも渋くなりそうです。

これは私が自分のことについてざっくり考えてみたことですが、この本は、障害によってもたらされる様々なことを、経済学というものさしを用いて、説明してくれる本です。
家族の問題、障害児教育、障害者施設のガバナンス、障害者雇用など、様々なテーマについて、考えています。
「東横インのバリアフリー室改造問題」、乙武洋匡氏の「銀座の屈辱」(予約がなかたことを理由にレストランで車椅子での利用を断られた)など、ニュースになったことを取り上げたりしています。
また、特に障害者差別解消法の部分では、差別について理解するために、ジェンダーなど一般的なことを説明してから、障害者の場合は、という形で展開しています。

この本を手に取る時点で、何らかの障害への関心が高いとは思われますが、それでも、このようにニュースで聞いたことがある話や、より身近な差別問題からの展開により、自分と遠い話ではないと感じ、理解しやすくする工夫がされています。

さらに、私がとても印象的に感じたところを引用します。

障害者雇用進めるには、こうした働き方を変えていく必要がある。知的障害を持つ人には、理解を強要するのではなく、理解しやすいように説明の仕方を変える。精神障害を持つ人には、長時間継続的に働かせるのではなく、断続的な働き方でも高い生産性が発揮できるように仕事を組み替える。
そして発達障害を持つ人には、各人の長所を見出し、それを生かせる仕事を探す。障害者は健常者と違い、できないことをあたかもできるかのようにごまかしたりすることはできない。そのため、雇う方が障害者の特性に合わせていくしかないのだ。
ところで、そうした雇う側の工夫は障害者だけに必要なことなのだろうか。高齢になれば理解力は低下するだろうし、子育て中の母親や介護が必要な親を抱えるサラリーマンにとって、長時間勤務は難しいだろう。そして、人間ならばどこかに発達していない箇所がある。不得意な仕事ばかり押し付けられれば、鬱状態になるのは当然だろう。
私たちは障害者雇用からもっと学ぶべきなのである。障害者を真の意味での戦力として活用できさえすれば、一般の社員を戦力にするのはたやすいことである。比較優位の原則に従った適材適所の働き方が実現できれば、働く人の幸福度も上がり、生産性も向上する。障害者雇用の推進こそ、政府が進めようとしている働き方改革の模範的事例となり得るのだ。

本書

長男を見ていて、肉親だからそう思うのかもしれないけれど、確かに長男は重い知的障害があるけれど、彼も人生を楽しんだりはかなんだりしているわけで、彼と私の間に大きな違いがあるというわけではなく、基本的には連続していて、どこからが障害で、どこからが障害ではないと区切れるわけではないと感じています。
それは、私と彼の間だけの話ではなく、あらゆる人の間も、同じなのではないかなと思うのです。
多かれ少なかれ、得意不得意がある。仮に何をやってもパフォーマンスの高い人がいたとしても、その他の人は何もしないのが理想ではなく、他の人はそれぞれ得意なことをやり、そして、パフォーマンスの高い人は、他の人が担えないことをやればいいというのが、すごくしっくりきます。

ついでにいえば、誰しも、やりたいこととやりたくないことがあると思います。できることだけをひたすらやってもらうのは効率的かもしれませんが、もし他にやりたいということがあれば、少しずつチャレンジしてもらうというのも、仕事を通じた成長に繋げられるのかな、と考えたりもします。

もう一つ引用したい部分があります。これは、乙武洋匡氏の「銀座の屈辱」のところに書かれていたことです。障害者差別解消法では、令和6年4月から事業者にも合理的配慮の提供が義務化されていますが、それは過重な負担にならない範囲で、となっています。レストラン側が乙武氏に利用してもらいたいと考えても、他のお客さんを待たせることになってしまう。そうならないように常に余裕のあるスタッフを置いておくことはコスト負担にはねかえることになります。
でもここでもし、他のお客さんも「乙武氏に利用してもらうべきだ」と考えていたとしたら、他のお客さんも進んで待つことを選んだことになると考えられます

一般人の配慮のレベルをあげるにはどうすればいいだろうか。ここで「社会的弱者である障がい者をもっと思いやるべきだ」などという陳腐なお説教をするつもりはない。経済学的に考えれば、配慮のレベルが低いのは、一般人にとって配慮のコストがまだ高いためと考えられる。近年では、障害者再度からメディアを通じての情報発信も増え、障害そのものに対する世間の認知度は格段に高まった。そこでいま必要なのは現代人の経済面/精神面でのゆとりだろう。日々の生活に窮していれば自分のことで精一杯だ。また、精神的に追い詰められた状態であれば、障害者に配慮している余裕はなくなる。

本書

障害者雇用に関して、必要だし、学びがあるし、絶対にやった方がいいと思いながら、私自身もどこか難しいのではないかと考えてしまうのは、その点だと思います。もしもっと余裕をもって仕事ができていれば、こんな風に感じることはないだろうなと思います。
けれど、余裕を持って仕事をできるようになる社会を待つことなど、できない気がします。だとしたら、逆に、先に始めてみるしかないのではないか。

何も根拠はありませんが、そんな風に思います。

以前別の本を読んだ時に、障害者雇用の難しさを、女性が社会進出し始めたときのことを例に考えてみました。女性に何をしてもらえばよいか分からなかったから、とりあえずお茶くみをさせておいた。障害者に関しても同じような部分があるのではないかなと想像しています。

働きづらさを感じているのは、障害者だけではありません。子育て中の母親もそうだし、父親だってもっと早く家に帰りたいと思っているかもしれないし、独身だって、自分のやりたいことがあるかもしれない。
けれど、仕事だから仕方がないとみんな諦めて、自分を押し殺しているのかもしれません。
精神障害のある人は不調になることもあるし、人工透析が必要な人は、週に3回通院しなければいけない。それに合わせた働き方を一緒に考えながら、次は自分はどのように働きたいか、を探ります。もちろん、障害のある子どもが生まれたからといって、辞めなければいけないだろうか、と悩むこともなくなるわけです。
そうやって、少しずつ、自分の働きたい働き方を真面目に考えることで、バリエーションを増やして、柔軟に、誰しも働きやすい社会を目指していけばいいのではないかなと思います。


短期的には負担が大きいこともあるかもしれないけれど、長期的には必ず、いい職場が、いい社会ができると信じています。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?