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自分の『担当』

 もし、自分が事務的な処理をする立場であるとき、現場の人から入力のやり方を必要以上に口出しされたら嫌ですよね。
 逆に、自分が現場の人であるとき、事務担当にもっとこうやればいいのにとか言われるのも嫌ですよね。
 だから、そもそもの自分の専門とするところ、担当とするところへの認識や自覚がないと、本来の能力も発揮できない上のそのややこしさが起きて、だからとても苦しくなる。

 できる人、見える人、わかる人は、そうでない人に「もっとこうすればよくなるのに」とつい思いがちだけれど、当の本人はその状態でいて経験することすべきこと、学ぶことをそのときまさに行っている。
 どんな人も完璧な魂を持って生きているから、自分の尺度でもって判断するところではなく、相手は完璧である、という視点で見ることをスタンダードにする、という意味なんだなぁということをしみじみと感じております。
自分がジャッジしてチャチャいれることで、相手の魂の必要な経験を邪魔することになる。
そのジャッジやチャチャ入れに自分の生命を使うということもナンセンスで、無駄が悪いとは言わないけど無駄には違いない。

丁寧に生きるって、自分の担当をまっすぐに生きることなんだなぁと思うのです。

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