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【本の紹介】『「狂い」のすすめ(ひろ さちや著)』
「最近は本も読めんようになってしもた」
と嘆く父の書棚から『「狂い」のすすめ(ひろさちや著)』を借りてきました。
86歳の父はたいへんな読書家で、多岐にわたる分野の本を大量に読んでいました。今では読めなくなったと言いますが、まだまだ頭の中には知識が詰まっているようで、子や孫が何を聞いても教えてくれます。
さて、『「狂い」のすすめ』。
もうちょっと「ええかげん」になりたい方におススメです。
「ええかげん」に生きることができている方には不要かもしれません。
もちろん「ええかげん」って誉め言葉ですよ。
しょっちゅう遅刻やらミスをしていてもヘラヘラしている人に、「ええかげんなやつやな~」という時に使う「ええかげん」ではありません。
「ええかげんにせえ!」の「ええかげん」です。「良い加減」です。
あ!悪い意味でいう方の「ええかげんなやつ」にも不要かもしれません。
(あ!でも私は「ええかげんなやつ」も大好きです。憧れます。)
室町時代に編纂された『閑吟集』の中に次のような歌があるのだそうです。
『閑吟集』のこと
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
何になろうかなどとまじめくさって悩みよって。
人間の一生など夢でしかないのだからひたすら遊び狂えばよい。
(意訳:かぼちゃ)
筆者は言います。
誤解しないでくださいよ。「ただ狂え」「ひたすら遊び狂え」と歌われていますが、だからといって室町時代の彼らが遊び狂っていたわけではありません。
悲しいことに、現実には彼らは牛馬のごとく働かざるを得ないのです。
室町時代に限らず、いつの時代でも、庶民はあくせく働くよりほかありません。
その現実の苦悩の中で、だからこそ庶民は、『一期は夢よ ただ狂え』と歌ったのです。
それはある意味で、彼らの願望でありました。
いや、願望というより、むしろ現実と闘うための思想的根拠であり、武器であったと思います。
人生がはかない夢であるのは庶民も権力者も同じ。
誰の人生が優れているとか劣っているとか、そんな比較は無意味です。
人生は夢です。だとすれば、まじめに生きるに値しません。いや、まじめに生きてもいいのですよ。でも、まじめに生きねばならないと、それこそ糞まじめに考える必要はない。そういう自己拘束をやめにしませんか。『閑吟集』はそう提言しているのです。
「常識」も「ルール」も時代や文化によって変わります。
絶対に正しいものはありません(と私は思います)。
(「まじめに生きる」とはどういうことなのか、糞まじめな私はまじめに考え込んでしまいます😒)
ひろ さちやさんが好きなモームの「人間の絆」についても触れられています。
『人間の絆』のこと
「人間の絆」には次のようなことばがあるそうです。
人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ
人生の意味などない
人の一生 何の役にも立たない
ひろさちやさんはモームを読んで、
「自分は生まれてきたついでに生きているんだ」
と思いついたのだそうです。
なるほどそう思えば気持ちがずいぶん楽になります。
私が大学生時代に言われたこと
私が大学生のころ、お二人の先生にこのような教えを受けました。
わざわざ呼び出していただいて。
『おまえはまじめすぎる。それでは生きていけんぞ。明日できることは今日するな』(国文学の先生)
『君は筆を持つ前に心を開きなさい。筆をおいて墨をするのだ』(書道の先生)
私は際立って糞まじめでガチガチの学生だったのですね。
人に心を開くことも苦手な。
あれから40年が過ぎましたが、いまだに先生方の教えが身についていない気がします。
この性格は治らないかもしれません。
「『狂い』のすすめ」再読します(それが糞まじめや、っちゅうねん😂)
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