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あれからみんなにも、いろいろあった。 元気ならGood job。

いろいろあったけど
生きてればGood job
あれからみんなにも
いろいろあった
元気ならGood job
-あれから(絶望少女達2020) 作詞:大槻ケンヂ

スマホがまだ普及してなかった10年前。
LINEは存在してなかった10年前。
インスタやTIKTOKも誕生してなかった10年前。
YouTuberもいなかった10年前。

あっという間だったけど、実はいろいろなことが変わった10年。

この10年という節目を境に、あの日のことを備忘録として残してみようと思います。

こんなの絶対おかしいよ

2011年3月9日。
東京のインターナショナルスクールに通っていた僕たちは高校卒業を控えながらもニコ動全盛期を楽しみつつ、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』にどっぷりと浸かっていました。

セシウムも知らない。
ベクレルも知らない。
マイクロシーベルトも知らない。
ポポポポーンも知らない。

のほほんと日常を過ごし、怒涛のように学校の課題や試験勉強をしていた矢先に東北で地震が発生。

俗にいう三陸沖地震。

当時自分の姉が仙台を旅行していたのでものすごく心配をしたのを覚えています。M7.3、震度4の大きな地震だったが姉たちとは特に問題もなく連絡が取れました。

そんな呑気な僕たちを襲ったのが数日後の3月11日14:46分、東北地方太平洋沖地震。

当時教室でアメリカ人教師と話していたら先生が急に

「揺れてね?」

と言い出す。

自分は全然揺れを感じていなかったので普通に話を進めていたら「ドーン!」という音とともに経験したことのないほどの揺れが学校を揺らした。

本能的にヤバいと感じたのか、その場にいた全生徒が瞬時に机の下へと潜る。

出遅れた僕が入るスペースはとうになく、しゃがんで頭をガードしたことは覚えています。机の下にいる友達たちと目を合わせていた自分はまるでケンシロウたちをかばうトキのようでした。

ちなみに震災直前のツイートがこちら。マジでノー天気。

情報がない帰宅難民、そしてテレビで知る絶望

午後3時。

非常ベルが鳴り響く校舎をあとにし、全生徒が校庭へ避難。

電波が死んだガラケーは文鎮となり、情報が得られないどころか家族とも連絡が取れません。

僕たち生徒たちは校庭で待機。

1時間、いや2時間。

なにも情報がないままジーっと校庭で座っているのは苦痛でした。
校庭ではふざけている小学生もいたりして、側転かなにかで腕を骨折?したアホもいました。

あとはとにかく腹が減っていました。

そんな僕たちに日本語の先生がハイチュウをくれた。
あれは本当においしかったし10年たった今でも覚えています。


午後5時

歩いて帰れる生徒は解放。
電車が動かず帰れなくて学校に宿泊する生徒を尻目に、僕と友人たちは学校をあとにしました。

二子玉川から駒沢公園。
徒歩40分ほどで無事に家へと到着。家族は無事。

友達の1人は家族と連絡が取れないので僕と行動を共にし、とりあえず飯を食いに近くのハンバーガー屋へ。

「AS CLASSICS DINER」というタモリさん御用達の名店です。

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状況が何もつかめてなかった僕たち高校生は、被害状況の予測をしあっていました。

「大地震だから建物とか倒壊しちゃってるかな?」
「日本の耐震基準は厳格だから被害はそこまで大きくないかもね」

いま思えばのんきな会話である。

そしてバーガー屋でテレビを観た瞬間、目の前に飛び込んできたのは倒壊ではなく津波の映像。

それもリアルタイムで仙台空港が水没していく映像でした。
いまでも鮮明に覚えています。

どんどん伸びていく死者数の数
炎に包まれた気仙沼
コンビナートが爆発した千葉

この世の地獄絵図のような映像が次々と、それも東日本各地で起きている惨状が流れてきた。

「とんでもないことが起きている」

昼までの平和な日常が崩れ去った瞬間だった。

当時のツイートがありました。死者数の桁が違いますね。

活躍するツイッターやスカイプ

電話を使った連絡網が遮断されたため、友人の親への連絡が取れませんでした。

色々試した結果、スカイプを試してみると奇跡的につながった。
状況や場所を伝えると友人の母は安堵した様子ですぐにこちらへ向かうと連絡。

一方で我が家は大きな問題を抱えていました。
前述したように姉が仙台にいるのです。

電話はもちろん繋がらず、とにかく待つしかできない状況は非常にもどかしかったです。

翌日になっても連絡は取れず、行方不明者相談センターもつながらなかったので唯一の方法はツイッターで探すこと。ネットを駆使してました。

すると姉の知り合いという方から連絡があり、ネット経由で姉とコンタクトが取れたので実家に連絡をくれたとのこと。

そう、姉はたまたま近くにあったホテルに匿ってもらい怪我もなく無事だったのです。本当にホッとしたのを記憶しております。

地震から一週間

地震後は学校が1週間以上、臨時休校となったので多くの同級生や学校の先生は国外へと脱出していました。

僕は教習所へ通ったり祖父母の家を訪ねました。

教習所の待合室で延々と流れるポポポポーンは今でも忘れない。
多分100回は観た。

被害の全容が徐々に明らかになり、原発の問題も顕在化。
計画転電などが実施されるなか、多くの人が原発の断面図を覚えたのではないでしょうか。

個人的には『さよなら絶望先生』第25集に記載されていた久米田康治先生による原発に言及した当時の紙ブログを鮮明に覚えています。

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ニコニコ動画で津波の動画などが観れるようになり、改めて想像を絶する災害だったと実感する一方で伝説の「でもFPSやめれないんだけどwww」動画も誕生。

良くも悪くもネットに救われた時期だったなと痛感します。

10年経ってみて

震災から1週間後、僕はアメリカの大学に受かってたみたいです。

いまではその大学も卒業し、アメリカに住んだ後に新卒でオプトに入社し、そこも4年務めたあとに退職し、フリーで映画とか作りながらCNNで仕事してるアラサーに。

もう6回も引っ越ししちゃったよ。

震災で最終回の放送が1ヵ月延期された伝説の『魔法少女まどか☆マギカ』も10周年。

自分も時代も周りも大きく変わりましたが、あの当時の記憶や思い、恐怖に変わりはありません。

10年経ったから終わり、ではなく20年も30年も、これから死ぬまで3.11を風化させないことが今後は大事になると思います。

当時の映像がYouTubeでいつでも観られる時代。
あの悲惨な光景を何回か見返すことで災害の恐怖を心に刻みます。

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