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拝啓、みにくいアヒルの子へ

「やべっ。この投稿自分にいいねしてたわ。」

こいつ自分のこと大好きかよ、なんて思われたくないから、自分の投稿につけた「いいね」をそっと消した。

いいねがたくさんついた投稿には、感情のこもっていない無機質な顔の僕が写っていた。

2年前に始めた写真を投稿するSNSのアプリ。先輩に勧められたのがきっかけだった。

初めは自分が好きなものに「いいね」がついて、共感してもらえる感じが楽しかった。

綺麗に撮れた景色。上手くできた料理。友達との写真。

自分がいいと思うものに「いいね」がつく。共感してもらえる。僕の価値観を分かってくれる仲間がいる。そんな場所としてこのアプリがあった。

だが、いつからだろうか。僕がいいと思ったものを押し殺して、みんながいいねしてくれそうなものを探し始めたのは。

いつからだろうか。「僕がいいと思うことへのいいね」から、「僕自身に向けられたいいね」に感じるようになって、いいねの数が自分の評価になってる気がしはじめたのは。

自分の価値観を人任せにしてしまうようになったのは、いつからだろう。

自分の居場所を守ろうと無機質な感情を投稿している僕は、僕じゃない誰かをいつも演じているようだった。

そういえば、あることを思い出した。

僕には前に、毎回自分の投稿に「いいね」していた友人がいたのだ。

その子の投稿は、お世辞にもみんなが羨ましがるような出来事ではないし、すごいと褒められるような特技を載せているわけでもなかった。

でも、なんとなく、真っ直ぐで綺麗な笑顔で写っていた。

「あいつ、自分の投稿にいいねしてるらしいよ。」

ある日、その友人が自分の投稿に「いいね」することを揶揄し始める者が現れ出した。

僕は「そうなんだ」と苦笑し、同調することしかできなかった。

「あいつ、自分の投稿にいいねしてるらしいよ。」
文字に興すと、そこにあるのはただ自分の投稿にいいねをしてる友人がいるという事実だ。何が悪いというのだろうか。

けどこの言葉は、「いいかどうか決めるのは人の評価だ」という集団が同じ方向を向くように、整備された価値観を伝えるには十分な力を持った言葉だった。

結局、自分の投稿にいいねしていた友人は、みにくいアヒルの子となり、アプリから姿を消してしまった。

僕はこの頃から居場所を失うことを恐れて、ただのアヒルを演じるようになった。

けど、僕はあの友人の投稿が好きだった。

綺麗じゃなくても、すごくなくても、真っ直ぐな感情が写真に写っている、あの投稿が大好きだった。

自分の好きなものに、自信を持って好きと言っている、あの真っ直ぐな投稿が大好きだった。

その大好きな投稿は、「常識」という数の正義に敗れ、もう見れなくなってしまった。

僕は好きな投稿が見れなくなる寂しさより、居場所を失う恐怖が勝ち、数の正義に立ち向かう勇気をもてなかった。そんな自分が惨めに思えた。

いろいろ考えるうちに、ふと気になることがあった。

なぜあの友人は自分に「いいね」をしていたのだろう。

そもそも、「いいね」はなんなんだろう。

「いいね」は誰が決めるものなのだろうか。

してきた経験も、感じてきた気持ちも、人それぞれ違うのに、同じ「いいね」があるのだろうか。

僕はふと、あることに気がついた。

僕があの友人の投稿から真っ直ぐな感情を見ることができたのは、自分の好きなことを、周りなんか気にせず自信を持って好きと言って投稿していたからだということだ。

歩んできた時間は人それぞれ違う。
してきた経験が違うのだから好きと感じるものや良いと感じるものが違うのも当然だろう。

僕の投稿に、僕が胸を張って「良い」といえなければ、それは本当の意味で「いいね」じゃない。

みにくいアヒルの子だって、白鳥だったのにアヒルだって思われてたからみにくいと言われてただけだ。わかってくれる人はわかってくれる。個性を隠さなきゃいけない理由なんてない。

自分の投稿にいいねをしていた友人を思い出して、僕は何か忘れていた大事なことを思い出そうとしているのかもしれない。

「投稿にいいねがつきました。」
スマホの画面に通知が届いた。

僕は、次から本物の「いいね」を見つけよう、と苦笑して画面を消した。

消えた画面には、前よりも人らしさを感じる、みにくいアヒルの子が写っていた。

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