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希望にあふれるピカピカ家族が、街の「背景」になるまで

小さな戸建に住んで10年が経った。

「引越しの際、近隣にあいさつするかどうか」は、流派が大きく分かれるテーマのひとつだろう。我が家は、昔から言われる「向こう3軒両隣」に則ることにした。我が家が建つことで日の光が当たらなくなったであろう裏手の家2軒もプラス。引っ越しで忙しい中、伊勢丹で贈答用のタオルを買い込み、当時まだ0歳の長女を抱えて計10数軒のお宅をまわった。

すると、日照権を奪ってしまった裏手の家も含め、皆さんあたたかく対応してくれた。それ以来まったく顔を合わせていないお宅も多いが、「あのとき、あいさつしたのだから」という安心感がいまだにある。

ゆくゆくは子どもがお祭りなどのイベントに参加したがったりもするだろうと考え、町内会にも自ら入会した。古くからいる人と、我が家のようなマッチ箱住宅の住民が混在するこの街に、なんとか「なじもう」という気持ちがあった。

しかし、我が家のあとにも小さな戸建がどんどん建ったが、あいさつに来てくれる家はほとんどなかった。

最近、隣の家の住人が入れ替わった。以前の住人は外国の方だったので、あいさつがないのも「文化の違い」と自分に言い聞かせていた。新しく入った人はどうやら日本人のようだが、あいさつはない。

先日、我が家の前の細い細い私道を、その家の住民と思われる親子が通った。私道of私道のような道なので、見慣れない人が通ると違和感がある。意地悪な私は、試しに「おはようございます」と声をかけてみた。「試しに」って自分で言っちゃってるけど、どんな反応をする人なのか見てみたかったのだ。

声をかけられた相手は「(は?え?誰?)」という顔をしつつ、「…おはようございます」と小声で言い、道端の何かを観察しようとしていた子どもを「ホラッ!早く!」と急かし、足早に去っていった。

「ごあいさつが遅くなりすみません。最近越してきた○○です」という返しまでは期待しない(と言ったら嘘になる笑)けれど、「なんだかなぁ」とやるせない気持ちになると同時に、かつては新居に越してきたピカピカ家族だった自分たちが、10年が経ち、街の「背景」になったように感じた。

引っ越してきたばかりのお隣さんは、たぶん「念願の一軒家に住み始めた、ステキなワタシたち」という像しか見えていないのだろう。それ以外は、ただの背景、舞台装置。かつて私がなじもうとしていた「街」なんてものは眼中にない。ただの背景にすぎない古参隣人の私は、声なんかかけてはいけなかったのだ。

これがマンションだったらいいと思う。お互いに干渉し合わない、自立したピカピカ家族同士。でも、これだけ選択肢がある中でわざわざ、隣との距離ゼロ狭小一軒家を選ぶんだったら、それなりの対応をするべきなのでは?と思ってしまうのは、古い考えなのだろうか。

「多様性」という言葉が使われるようになって久しいけれど、多くの場合、「新しいもの(だけ)を認めること=多様性」と誤認されていることが多いように思う。「あいさつをしなくていい」が認められるべき新しい考えで、「あいさつをすべき」は滅ぶべき老害な考えなのか?

…などとつらつら考えていたら、愛読する発言小町では、意外にも「あいさつをすべき」が優勢だった。

発言小町が世のスタンダードとどれだけ合致しているコミュニティなのかわからないけど、世の中まだまだ捨てたもんじゃないのだろうか。とりあえず、すっかり街になじんだ我が家では、子どもをあいさつする派に育てたいと考えている。

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