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陰翳礼讃 暗がりの中の美しさ

テキスト)陰翳礼讃 谷崎潤一郎 

知っての通り文楽の芝居では、女の人形は顔と手の先しかない
中略)

旧幕時代の町屋の娘や女房のものなどは、驚くほど地味であるが
それは要するに、衣装というものは闇の一部分、
闇と顔のつながりに過ぎなかったからである。
陰翳礼賛 本文より抜粋

ずいぶん昔に読んだことがあった。正月明けに久しぶりに本書を手に取った。


誰がか忘れたけど、老舗コメディアンの人がどこかで言ってた。

”昔の女の人はお歯黒してたんだよね。若い人は知らないかもしれなけど
僕らが小さい頃は、ドラマや映画でも女優さんがやってた。
だけど今観たらきっと怖いだろうね。っていうか、そもそも、
なんで歯を黒くして、おまけに眉まで剃ったんだろう?”

”結婚したらもう魅力的に魅せる必要はないぞ。お前はもう家に入ったんだぞ
っていうことなのかな?”

そんな感じのことを聞き流してたんだけども、
なんだか違和感があって、これはなんだろう?ってずっと思ってたの。
確かになぜ、女の人だけ結婚したら見た目を変えないといけないんだ?
しかも、醜くする必要ってある?っていうのは疑問だ。そしてやっぱり、
お歯黒は怖い。眉毛まで無いなんて。

これはきっと、女の自由を奪うためだ!っていうのも一見すると正解な気もするけど。。でもね、

その価値観、西洋のそれじゃないですか?

と、長い西洋暮らしから帰ってきたわたしは思うのだった。

だからと言って、

暗闇に埋もれ、眉を剃り落とし、衣装は地味で、
さらにはくちびるの赤みまで、鈍い青みのある色で潰し、
生命の息吹自体を、これでもか!と消し去って幽霊みたいに
暗がりに身を沈め、陰の織りなす陰翳の隙間から
発光するように漂う、『女』の美しさはわたしを恐怖します。。

と同時に、
東洋に、日本に、脈々と続いてきた、『暗がりの美学』の経脈。
これをどこかにおき忘れてしまってる自分に空虚さも感じます。
空虚というか、焦りというか。それは緊急性を持った叫びでもあり。

光を追い求めるのではなく、影と影の合間に光を見出す。
闇を一掃するのではなく、むしろ暗がりと同化する。

思うに明朗な近代女性の肉体美を謳歌するものには、
そう云う女の幽鬼じみた美しさを考えることは困難であろう。
また或る者は、暗い光線で胡魔化した美しさは、
真の美しさではないと云うであろう。

けれども我々東洋人は、なんでもないところに
陰翳を生じめて、美を創造するのである。

美は物体にあるのではなく、物体と物体の作り出す陰翳のあや、
明暗にあると考える。夜光の珠も暗中におけば光彩を放つが、
白日の下に晒せば宝石の魅力を失うがごとく
陰翳の作用を離れて美はないと思う。
本文より抜粋

この後、著者は西洋人と東洋人の肌の色の違いについて書いている。
西洋人の肌は白いと言っても、近くから比べると
東洋人の、いわゆる『肌の白い人』の方が、実際白かったりすることもあるのだが、

大事なのはそう云う、どっちがより、絵の具の白に近いか?のような
表面的なものではなくて、もっと霊的なものである。

西洋人(白人)の肌の色は透き通っている。
それに対し、東洋人は、どんなに色白であっても、
”白い中に微かな翳り” が或る、と本書で言っている。

色白で先進的な日本人女性たちが
負けじと西洋人と同じようなドレスを身につけ
肌の露出部分には白く濃い白粉を塗りたくっていたとしても、
一度でも彼等(西洋人)の中に入ってしまうと遠目からでもすぐにわかる。
なぜなら東洋人の肌には、表面は白くても底に沈んだ翳りがあり、
西洋人の肌は、表面的には濁っていても、底から抜けるような白さがあるから。

〜〜〜

1980年代初頭にパリコレデビューした、川久保玲。
全身真っ黒で身体のラインも見せない。笑顔もない。化粧っ気もない。
そんなコレクションは、”黒の衝撃” と呼ばれた。まさに陰翳だ。

人種差別や性差別に満ちて、おまけに超保守だった当時のハイファッション。
そこに、東洋人の女が突然やってきた。

当時のヨーロッパのファッション界隈はきっと恐怖だったと思う。
と同時に、激しく嫉妬したに違いない。

だって、それまでの彼等の価値観は、
光を強調し、闇は排除するものとして捉えていたんだから。

そして、きっと本能的に、霊的に、
陰翳礼讃の美学を持ち出されたら、自分たちは全く無力であると
圧倒されたに違いない。

〜〜

ここからは言葉を選ばずに書いていく。

私たちは飼いならされてはいけない。
西洋的な価値観、美学。これらを学ぶことは大切だけど
まるで自分の文化のように思い違いをしてはいけない。

そう思う。

日常は広告にまみれていて、
透き通った肌と白い歯が太陽のもとで輝いている。
それこそが女性の美しさだとばかりに洗脳される。
その反動で、歳を重ねることへの不安から、
自らをカテゴライズして、他人にも押し付ける。
アラ〇〇 とか、〇〇代だって輝ける的な。

その場合の、『輝ける』とは、
どれもこれも、お天道様の下で
スポットライトを浴びてる自分、みたいな刷り込みである。

どうして光を求めて暗がりを排除しようとする
西洋人が、日本人のように自分をカテゴライズしないかといえば

日本人が陰翳に美を見出したことは、受け入れること、
つまり、文化や女性性、肌の色、つきまとう翳りを受け入れ同化すること
諦めること、悟ること、そこがベースになっているのに対し、

西洋人の光を追い求めることは、もっと明るい方へ、先へ先へと
進んでいく、変化していく、追い求め戦っていくと云う
その気質の違いにあると思う。これはもう、ヨーロッパがバイキングの時代以前からずっと、闘いに明け暮れた歴史にも気質が影響していると思うけど。。


つまり

日本人の本来持ってる、同化、諦め、
それを美学に昇華するためには、
西洋人のやり方では無理があると云うことです。

闘い勝ち取っていくと云う遺伝子のないまま
表面的に光を追い求めても、

滲み出る翳りにいつしか抱擁され、
それが自虐そしてカテゴライズ、
同調の押し付け。。そんな感じになっちゃうんは
仕方のないことなのかもしれません。

東洋人であるわたし。
ちゃんと向き合って考えていきたいテーマです。

新しいおしゃれや暮らしの創造にも繋がりそうで
楽しみです。



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