感想『すべての夜を思い出す』

知りえないこと、あり得たかもしれないこと、消えて行ってしまった無数の物事を含んで今ここがある。現実には実感しにくいが、映画や写真や小説といった表現を介して私たちはそれを経験することができる。

映画『わたしたちの家』で一軒の家に重なって存在する並行世界を描いた清原惟監督は、新作『すべての夜を思い出す』において、よりさりげない形で複数の時空間の重なりを表現している。

この映画には年代の異なる三人の女性が主人公として登場する。彼らが多摩ニュータウンの団地周辺で過ごす一日を追っているが、作中で三人が直接関わることはない。三人の中で最も年長の知珠は友人のハガキに書かれた住所を訪ねる。ガスメーターの検針員をしている早苗は団地で行方不明になっている老人に出会う。大学生の夏は死んだ友人(大という名前である)の母親から、彼が生前撮影した写真の引換券を渡される。

三人のストーリーのすれ違いは手前と奥の構図に表れている。たとえば知珠と団地の子どもたちの場面だが、木の枝に引っかかったバドミントンの羽根を取ろうとしている子どもたちに声をかけた知珠は、なんとそのまま木に登り始めてしまう。知珠の行動に引き気味だった子どもたちは「あ、もう大丈夫です」と言ってその場を去ってしまう。そこでカメラが切り替わり、木の幹に取り残された知珠を怪訝そうに見る早苗の後ろ姿が現れる。知珠は背景に退き、ここから早苗のエピソードが始まる。

前後の構図は夏が登場する場面でも印象的である。ここでは最初、視点人物は知珠である。団地の広場に足を踏み入れた知珠のずっと向こうにダンスをしている夏の姿が見える。踊る夏を見ているうちに、なぜか知珠も真似して踊り出す。次のカットでカメラが切り替わり、スマホで音楽を流しながら踊っている夏が画面の手前に現れる。そのずっと後ろの背景に踊っている知珠が小さく映っている。主人公の交代に合わせて遠近の切り返しが行われている。
ダンスのシーンは後半に反復される。夕方、夏と友人の二人は花火をしようと公園にやってきている。二人の立っている場所の背景にダンスをしている若者のグループがいる。会話の途中で彼らに気付いた夏は自分も踊り出す。つられて夏の友人も踊り出す。この時、カメラは手前にいる夏たちから奥の若者グループへと被写体を変える。そしてまた夏たちのところに戻ってくる。
この前後の切り返し、そして踊りの伝染には、同時に存在する複数のものたちが直接的な関わりを持たないまま交錯し続けるという『すべての夜を思い出す』の性格が感じられる。

空間の中に複数のものが取り込まれているように、時間にも複数性がある。現在とは異なる時間を記録したものが映画の中でたびたび登場する。
夏は生前の大が撮影した写真の引換券を彼の母親から渡される。写真屋に持っていくが保管期限を過ぎており、倉庫を探してみるからまた来るようにと言われる。
その写真屋が早苗の恋人であることが後のシーンで明らかになる。写真屋の作業場ではビデオテープをデジタルの記憶媒体に移し替える作業が行われている。作業中のモニターに映っているのは数十年前に撮られたさまざまな家庭のホームビデオだ。誕生日パーティの様子であったり、地域の行事に参加する家族の様子であったりするそれらの映像を見ているうちに早苗は覚えのある風景に気付く。ビデオの映像をきっかけに早苗は、飼うことのなかった野良猫の思い出を語り始める。
やや唐突にも感じられる歴史博物館のシーンは、展示物を写真やビデオテープという記録媒体の一種と考えれば、上述のシーンからの連続性を読み取ることができる。夏と友人が訪れた博物館では多摩ニュータウンで発掘された縄文時代の土器が展示されている。展示をめぐりながら二人は4500年前の昔に思いを馳せる。じっさいにそこに人が生きていた時間として想像している。「4500年前かあ。途方もないね。私なんて昨日の昼に何食べたかも覚えてないよ」「それはこの土偶を作った人たちも同じじゃない?」
ガスのメーター点検で団地を訪れていた早苗に顔見知りの老婆が団地の昔を語る。自分が若いころはこの団地も住人がたくさんいて、共働きの家庭は隣近所で子供を預け合って仕事に出ていた。それで子供に寂しい思いもさせたが夜は毎晩隣同士で宴会だったという。

それぞれの登場人物もはっきりとは語られない喪失を抱えて映画に登場している。ハガキに載っていた住所からどこかへ引っ越してしまった知珠の友人(なぜかLINEすら知らない)、早苗が飼うことのなかった野良猫、夏の死んだ友人。

人には過去があり、土地にも過去がある。無数の、もはや知る由もない死者たちの、経過した時間がそこに堆積している。それら過ぎ去った時間はふだんは感じ取れないが、たしかにあったものである。そんな見えない過去を映画の映像や言葉から少しずつわれわれ観客は感じ取っていく。

この映画で言及されている時空間とは、現実には存在しなかったものまで含んでいるようだ。
飼うことのなかった野良猫の話を聞いた早苗の恋人は「そういう(猫を飼った)早苗さんもどこかに存在していると思うよ」と言う。これはどういうことか。
早苗に関してもう一つ奇妙なエピソードがある。ガスのメーター検針の仕事中、彼女は団地で行方不明になっている高田さんという老人に遭遇する。高田さんに同行して辿り着いた家は、彼が住んでいるはずの団地ではなく、永山に建っている一軒家である。高田さんは、どういうわけかドアの鍵が回らないし、女房が出かけているのかチャイムを鳴らしても誰も出てこないと言う。家を間違えているんじゃないかという早苗の声も耳に入らず、おかしいなあと呟きながら高田さんはチャイムを押し続けている。高齢による記憶違いと捉えるのが正しいのだろう。しかし不思議な点が二つある。家までの道中で高田さんは、玄関先に可愛いラベンダーの花が咲いていると語っていたのだが、本人の住居ではないはずのこの家の玄関先にきちんと世話のされたラベンダーの花が咲いていた。また、居住者がいないにも関わらずガスのメーターが動いていた。
これらのことにも現実的な理由があるのかもしれない。だが、もしかしたら、先述の「猫を飼っていた早苗」のように、高田さんのありえたかもしれない人生でこの家に住んでいたのではないか。監督の過去作『わたしたちの家』で描かれた並行世界がここで一瞬姿を見せたようだ。

三人の主人公は団地の住人ではない。外から訪れた、いわば旅行者である。彼らは基本的にずっと移動している。徒歩だったり、自転車に乗ったり、路線バスに乗ったり。多摩ニュータウンという土地を三人の主人公が動き回るその過程で、人と土地の接触、摩擦によって双方の記憶が喚起されていく。

映画の中で三人の主人公は様々な形ですれ違っている。しかし当人たちはそのことに気付いていない。夏が引換券を持って行った写真屋の作業場で早苗が古いホームビデオを見ていることを互いに知らないし、そもそもこの映画の主人公として自分たちの一日がクローズアップされていることなど気づく由もない。映画で描かれるこの一日は知珠の誕生日であり、夏の友人の命日だった。この一致はもちろん誰も知らない。早苗が見ていたホームビデオが誕生日パーティの様子だったことは示唆的である。これらの偶然の一致を知るのは私たち観客だけだ。それは『わたしたちの家』における二つの並行世界の重なりを俯瞰で把握できるのは観客だけという構図にも似ている。
誰かと誰か、何かと何かの偶然の重なりは現実にいくらでも起きていることである。しかし私たちの人生はあまりにも断片的で、その重なりに気付くことができない。だからこそ映画や小説といったフィクションが必要になるのだ(ここで言う「フィクション」はいわゆる「ノンフィクション」も含んでいる)。フィクションはある視点を提示する。それは今ここに縛られた私たちの制約に囚われない視点である。いくつもの場所やいくつもの人生を同時に在るものとして捉える、そんな視点をこの映画は観客に与える。

夏と友人が最後の花火に火を点けるシーンの後、大が撮った写真が現像されてスクリーンに映し出される。そこに写っているのは今日と同じく花火で遊ぶ夏たちの姿である。花火の終わりごろ、夏と友人はカメラに振り返り、いないはずの大に呼びかける。この時カメラは死者の視点になる。現像された写真は大がもし生きていたら撮っていた写真にも思える。
現在と過去の光景がまるで連続しているかのように繋がる。今この時もまた記憶(過去、歴史)になり、見えない層として土地や人を構成する。一日という時間の経過が風と光の変化に現れている。昼頃から吹き始めた風はだんだんと強くなり、夜空を背景に木々を揺さぶっている。

(余談)
・ハローワークのシーンで聴こえてきた「もっとねえ、スリルのある仕事がしたいんだよね」という出所不明の台詞がやたらと印象に残っている。
・風が吹いていたり、博物館で土鈴を鳴らしたり、ダンスをしたり、そういった動きがとにかく魅力的だった。


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