『宇宙探索編集部』 フェイクドキュメンタリーと詩の言葉について

コン・ダーシャン『宇宙探索編集部』を一言で表すのは難しい。宇宙人を扱ったSFと言うことはできるだろう。とぼけたユーモアのコメディ映画でもある。映像はフェイクドキュメンタリー風であり、そして旅の映画である。

フェイクドキュメンタリーの手法を採用しているが、その効果については曖昧なところが多い。登場人物たちがインタビューに答えるシーンがいくつかある。皆既日食のシーンでは旅先で出会ったスン・イートンという青年が周りの者たちに目を瞑るように言い、そしてカメラに向かって「お前も目を閉じろ」と言いながら画面を手で塞ぐ。撮影している「誰か」が作中に存在しているのは明らかである。だが彼が何者であるのか最後まで明らかにならない。旅の終盤、仲間たちと別れて先へ進むタン編集長の姿をカメラは追い続ける。『コワすぎ!』シリーズなどの白石晃士監督作品では、どんな状況でも撮影を続けるカメラマンの存在を作品のテーマとして意識的に取り上げているのだが、そこまでの意図はなさそうだ。そもそも何の目的でカメラマンが同行しているのかわからない(調査の記録であるならばタン編集長について語ったインタビューの必要性は?)。まあこの点についてはあまり厳密に考えないほうがいいのかもしれない。そういった緩さがある意味で作品のテーマだと感じられるからだ。

本作の主人公であるタン編集長は意味に囚われた人間である。それが示されているのが作品前半の彼の自宅のシーンだ。映像の映らなくなったテレビの砂嵐を指して、このテレビの故障は宇宙のどこかで銀河同士が衝突したか、恒星が崩壊した影響だと語る。

物事には明確なつながりがあり、出来事には必ず理由がある。タン編集長の生き方はそんな信念に貫かれている。だから、宇宙人が存在するなら(彼にとっては間違いなく存在する)、地球への来訪は善意であり、我々が宇宙に生きる意味を伝えるためだと考える。

タンがそのような信念を持つに至った背景に、彼の娘の死が関わっていることが後半で明らかになってくる。娘は自殺する直前にタンに宛ててメッセージを送っていた。私たちがこの宇宙に存在する意味はなんなのか、と。彼はこの質問に答えることができなかった。それを悔やみ続けているとスン・イートンに打ち明ける。

映画の冒頭で古いテレビ番組の映像が流れる。若い頃のタンがインタビューに答えている。我々の住む地球は広大な大地の砂粒の一つに過ぎない。宇宙人は必ずどこかに存在する。人類の発展に必要なことは宇宙人を探すことだ。

宇宙人の探求に捧げられた人生が、いつしか人生の答えを宇宙人に求めるようになっていた。というよりそれらは不可分のものである。社員の給料も光熱費も払えない零細出版社を抱えながらそれでも宇宙人の証拠を求めて旅に出てニセモノの死体に有り金をはたいてしまう彼の姿は、「そうとしか生きられない人間」の悲哀を感じさせる。

映画の後半でスン・イートンがタンに向かって語る。自分たちが宇宙に存在する意味は、宇宙人にもわからないのではないか。だから彼らはその答えを求めて地球を訪れるのではないか、と。

スン・イートンという青年はいつも頭に鍋を被っている。たびたび気絶をする。彼と彼の死んだ父親は村に現れた未確認飛行物体と関わりがあるらしい。身寄りがおらず、村では一種の生活保護として放送係の仕事を与えられている。村人たちからは変わり者扱いされている(鍋を被るのは気絶したときに頭を保護するという意外と現実的な理由があるのだが)。彼の趣味は詩を書くことである。

放送室でのタンとの会話でスン・イートンは、子供の頃学校の授業で詩の魅力に目覚めたこと、また、教師から数学は宇宙を記述できる言語だと教えられたが、数学の言語は自分にはかっちりしすぎて合わなかった、詩の曖昧なことばの方が良い、と語る。

対してタンは詩を読まない。そして、数学のような明確な答えを求めている人間である。

映画の中でたびたびスン・イートンの読んだ詩が挿入される。詩が一つのキーワードであることは明らかだ。

この映画の大半はテレビの旅番組のような映像で構成されている。それらのシーンがしかし、いつしか詩情のようなものを帯びてくる。ロケーションの美しさや画作りの巧みさというのは勿論ある。それに加えて、ドキュメンタリー的、つまり偶然に映り込んだ映像が示す世界の曖昧さや混沌が、詩の言葉が持つ多義性と共鳴していると感じられる。

旅の終盤でタンはある超常的な体験をする。その後、甥の結婚式でスピーチをする。彼の姿は憑き物が落ちたようである。スピーチの中で彼は旅での体験を夢として語る。我々は宇宙という詩を構成する文字の一つ一つである。いつの日かその詩が十分な長さになれば、我々が存在する意味がわかるかもしれないと。昔のタンが語った砂粒のイメージが長い時間を経てここに結びつく。

映画の最後は病院の屋上でタンが自作の詩を読むシーンである。答えの出ない問い(我々が存在する意味は何か。娘はなぜ死ななければならなかったのか)に囚われていた男を解放したのは詩という概念だった。そして、多様な解釈ができる詩の言葉の幅広さを、世界そのものの多様性として捉え、目に見える形で示したのがこの映画の映像表現ではないかと思えた。

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