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『破壊の自然史』 セルゲイ・ロズニツァ

「破壊の夜々の記憶はまちがいなくあったし、いまもあることを私は疑わない。ただ文学を含めて、表現にもたらされるときのかたちに信を置くことができないのだ」
「歴史の深淵とは、そうしたものである。その深淵ではすべてが錯綜している」
「記憶を働かせるのはそのためであり、想起することによってのみ、罪業の山影で生き残ることも許されるのだ」

W・G・ゼーバルト『空襲と文学』

映像はドイツの街並みから始まる。道路を行き交い、カフェに集い、音楽を楽しむ大勢の人たち。そこから不穏な転調が起きる。カメラは意味深に彫像を仰ぐ。鋼鉄製の門がゆっくりと開く。地獄の門であるかのように。骸骨が映る。場面は戦闘機工場に移る。一定のリズムを刻み続ける機械から吐き出される爆撃機の部品。軍需工場で働く女性たち。訪問した軍人がジョークを交えた演説で工員たちを鼓舞する。そして始まる爆撃。操縦席から見下す都市。止むことなく投下される爆弾。花火のように燃え盛る都市が、容赦なく映し出され続ける。
空と地上が対比される。飛行機の目線から、それから地上の市民の目線から。燃え盛る建物。床一面に並べられた遺体。

『破壊の自然史』はセルゲイ・ロズニツァによるアーカイヴァル・ドキュメンタリーの一作である。その一番の特徴は現存する史料映像(アーカイヴ)をつなぎ合わせて一本の映画として再構築する手法である。

本作はW・G・ゼーバルトの『空襲と文学』に対するアンサー的作品と言われている。『空襲と文学』は第二次世界大戦中に連合軍側からドイツに行われた空襲の実態が、敗戦、ナチスに加担していたことの負い目、圧倒的な惨禍のトラウマなどのために公の場で十分に語られることがなかったということを、さまざまなテクストを基に考察した著作である。

原題は”The Natural History of Destruction“。Natural Historyには博物学・自然誌といった「自然科学の一分野」の意味がある。空襲による惨禍をそのように形容するのはひどく皮肉な印象を受ける。破壊がもはやひとつの営みである人類に対する諦念なのか。
Natural History、博物誌という題にはもう一つ、断片の収集という意味も込められているのではないか。異なる場所、異なる目的で撮影されたいくつもの記録映像や、物語に満たない出来事の切れ端、記憶。そういったさまざまな断片を無数の史料の中から拾い上げてつなぎ合わせる。収集と編纂という手法もまたゼーバルトの著作に通じるところだ。

時間も場所も撮影者の立場も(連合軍側とドイツ側)異なるいくつもの映像。それらの組み合わせからいくつかのテーマが浮かび上がる。侵略への抵抗、「悪」に対する罰、いかなる大義名分がこの圧倒的な破壊を弁明しうるのか。爆撃する空からの視点と破壊された地上の視点。攻撃を煽る両陣営の権力者の言葉と声なき市民の映像。モンタージュの手法に記録映像のツギハギであることを忘れる。紛れもない一本の映画となっていることに驚く。

ゼーバルトの言う通り記憶は存在している。記憶=記録として。残された膨大な資料映像。それらをつなぎ合わせ、一つの歴史として語り直すこと。いわば、隠れていた記憶にそれを語る声を与えること。それが、『破壊の自然史』におけるロズニツァの目論見である。

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