カープダイアリー第8500話「”巨人の星”たちが戦後の復興期にやって来た…侍ジャパン射程の宗山塁らを次々に輩出する、三次プロ野球伝続編Ⅴ」(2024年1月21日)

天皇杯第29回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会、通称「ひろしま男子駅伝」が開催された。

広島市中区の平和記念公園前を発着する7区間48キロのコース(1区7キロ高校生、2区3キロ中学生、3区8・5キロ大学・社会人、4区5キロ高校生、5区8・5キロ高校生、6区3キロ中学生、7区13キロ大学・社会人)で行われ、長野がコロナ禍で中止となった2021、22年を挟み3大会連続優勝を果たした。

長野から11分以上遅れて最後にゴールに駆け込んだ石川の最終走者、福村拳太には、沿道から誰よりも大きな拍手が送られ、レース後のインタビューも清々しかった。

優勝候補筆頭に挙げられていた長野は、やはり強かった。社会人はエントリーせず、高校生は佐久長聖勢で固め、大学生ランナーも佐久長聖OB。育成システムがしっかりと確立され隙がない。
 
2位には埼玉が入った。3位は千葉、4位は京都、5位は兵庫。

6位は岡山、7位は福岡、8位は東京でここまでが入賞。2年連続の入賞を目指した広島は14位だった。

広島メンバー
1区坂口雄哉(世羅高)
2区中西雄也 (八本松中)
3区中野翔太(中央大)
4区向津翼(世羅高)
5区井上史琉(世羅高)
6区大歳怜(向陽中)
7区倉本玄太(青学大)
相場直紀(中電工)、本宮優心 (世羅高)、大田蘭斗 (伴中)

長野が佐久長聖高勢を軸に添えているように、広島もまた世羅高メンバーが中心になっている。世羅高は言わずと知れた駅伝名門校。1947年、戦後まもなく同校で初代監督を務めた内海冨郎氏がその礎を築き、全国に通用するチームを創り上げた。

以後、世羅の台地で鍛えられた選手が大学、社会人で活躍、さらに指導者として県内外でまた後継者を育成するシステムが築かれていった。

世羅から三次までは高速道を使えば30分程度。その三次では野球がなぜ早くから盛んだったのか?

少なくとも三次には日本のプロ野球の歴史において「唯一」とされる歴史がある。…それだけが三次の野球熱の高まりにつながった訳ではないだろうが、それでも「唯一」はすごい…

戦後5年目にして廃墟の街に新球団。1950年、カープは記念すべき1年目のシーズンに突入する。迎えた6月7日、三次に初代カープナインの姿があった。相手は大洋。結果は22対2の大勝だった。28安打は今も球団最多記録となっていてセ・リーグ最多タイでもある。22得点も球団記録だ。

以来、毎年のように公式戦が開催され巨人戦も行われた。赤バットの川上も三次の空の下、プレーした。1950年プロデビューの“金やん”も、のちに投げた!という話がある。

当時、巨人ナインにサインをもらった、という人が三次には多数いるようだ。一方、三次が生んだNPB最強スラッガーのひとり、「初代トリプルスリー」の岩本義行さんもその頃、松竹で30発以上をスタンドに叩き込んでいた。

三次野球がなぜ盛んになったかをまとめた資料を、少なくとも三次市は持ち合わせていないようだが、こうして当時の様子を再現していくと、なるほど…というイメージが湧いてくる。

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