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2人のシュトラウスの音楽から読み解く「2001年 宇宙の旅」

 スタンリー・キューブリックがSF大作「2001年宇宙の旅」の製作を開始したのは1964年の初頭のころからで、前作「博士の異常な愛情」が1月に公開されると、4月にはすでにSF界の大御所だったアーサー・C・クラークとコンタクトを取っていた。製作の初期の段階からキューブリックは音楽が作品において重要な位置を占めることを直感していたそうで、クラークと物語の骨格作りをしている時点ではカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」を聴きながら作業していたともいう。
 1965年になると、キューブリックは既存のクラシック音楽を撮影済みのラッシュフィルムにあてて「仮トラック」にするための選曲を、ゆるやかにだが始めており、そのための「推薦曲」を家族や周囲の者にも募集していた。キューブリックの義弟で非公式にアドバイザーを務めていたヤン・ハーランは「インパクトがあり、短く終わるクラシック音楽」をキューブリックから相談され、また編集助手を務めたデビッド・デ・ワイルドは「参考になる楽曲」の数々をテープにダビングしてキューブリックに渡した。そしてハーラン、デ・ワイルド共にリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」をリストに入れていた。
こうした選曲作業が加速することになったのは撮影も進んでいた1966年の1月で、当時のMGMのボスだったロバート・オブライエンを含めた重役たちに、撮影済みのフッテージを見せなければならなくなったからだった。このためキューブリックはラッシュに合わせる音楽の選定を急がなければならなくなり、製作助手のトニー・フリューインに「経理から200ポンドもらって、市中のレコード店から使えそうなクラッシックのレコードを片っ端から買い集めてくるように」と指示した。

 一方で、伝統的にオリジナルの映画音楽を作曲するという手段も残されていた。1966年の春、キューブリックはオルフに直接コンタクトを取り、サウンドトラックの作曲を依頼している。すでに70代を超えていたオルフは興味を示さず、「自分はこの仕事には年を取りすぎている」という理由で断ってきた。続いてキューブリックは「カーツーム」や「モスキート爆撃隊」などで知られるフランク・コーデルに作曲を依頼し、今度は契約も結んで報酬も支払っている。と同時にキューブリックはさらに、「市民ケーン」や一連のヒッチコック作品で知られるバーナード・ハーマンへも依頼している。しかし前作「博士の異常な愛情」での依頼も断っていたハーマンは、今度も断ってきた。また、作曲の依頼はしなかったものの、作曲家で指揮者でもあるジェラルド・シュルマンやフィリップ・マーテルからキューブリックは助言を求めた。映画音楽家のエドウィン・アシュトレーにも「仮トラックに選んだような曲をどう作ればいいか」というアドバイスを求め、「そのまま使えばいいのでは」と言われている。というわけで、キューブリックの心中では「仮トラックをそのまま使いたい」という思いが時と共に強くなっていくのだが、それにはそうなるだけの理由が積み重なっていたのである。

 さて、キューブリックが狙ったことなのかどうかは定かではないが、宇宙へ到達した人類の姿を、映画は美しく、だがユーモアを交えて表現している。ウィンナワルツの調べに乗せて。
 軍事衛星や宇宙ステーションとそこへ向かうオリオン号の一連のシークエンスと、その後に月面基地へと向かうエアリーズ号の場面ではヨハン・シュトラウス2世作曲の名曲「美しく青きドナウ」が奏でられる。特にオリオン号と宇宙ステーションがランデブーをする一連のカットは、さながらワルツを踊っているかのようでもあり、21世紀の宇宙と19世紀の音楽という意外な組み合わせが、これまた映画史上に残る美しい場面として知られるようになった。しかし映画の公開前にこの場面を素晴らしいと思っていたのはキューブリックとその妻クリスティアーヌぐらいで、多くのスタッフはこの選曲を「陳腐」であり「気がふれたアイデア」だと見なしていたらしい。

 キューブリックはそもそもこの場面には、メンデルスゾーン作曲の劇音楽「真夏の夜の夢」から「スケルツォ」を選んであてていた。この曲はシェイクスピアの有名な戯曲を舞台化するために作曲されたもので、中でも第9番の「結婚行進曲」が有名だが、キューブリックがなぜ「スケルツォ」を選んだのかに、まずは注目したい。
 「スケルツォ」とはそもそもはイタリア語で「冗談」を意味し、本来は諧謔的意味を持っていたが、一般的には3拍子で速いテンポの舞踏的楽曲であることが多いとされる。となると、これがやがて本当に「踊るための音楽」であるワルツに取って代わられたのも理解できるし、逆に言えば、直感的にスケルツォを選んでいたキューブリックが、「ドナウ」が場面と組み合わさった際に「これだ!」と思ったのも、どこかで「舞踏的に」シークエンスを構成していたと考えていいと思う。
 とはいえ、話はそう簡単ではない。「ワルツ王」と呼ばれたシュトラウスの楽曲の中でも、「ドナウ」は特別な存在で、オーストリアの「第2の国歌」とも呼ばれているが、そもそもその成り立ちからして他のワルツとは異なる経緯があった。この曲、実は「踊る」ためではなく、そもそもは「歌う」ための曲だったのだ。

 1865年にシュトラウスはウィーン男性合唱協会から、自身にとっては初となる合唱曲の作曲を依頼される。この依頼された曲は、紆余曲折を経て2年後に完成することになるが、シュトラウスは友人への手紙で「合唱曲としての作曲が、ダンスだけでなく声楽も考慮しながらだったこと」に対する苦労を書き綴っている。つまり「踊ってよし」と同時に「歌ってもよし」という点にも神経を使わなければならなかったというわけだ。とはいえ、この曲が実際に合唱曲として歌われることは現在では稀で、大抵は管弦楽曲として演奏されている。しかし「ドナウ」が本来持つ「合唱曲」としての「歌い上げる」特性が聴衆に対して強く作用し、心に刻まれるようになっていることは覚えておくべき事実だと思う。そういった意味では後年、歌曲として作曲されたワルツ「春の声」も同様だと思う。そしてこの「聴かせる」という側面は、後にキューブリックがカラヤン指揮の演奏を選ぶ際に重要な意味を持ってくるのである。

 面白いことに、この曲が「2001年~」の件の場面で使われるきっかけとなったのは「スタッフの居眠り」だった。後に「ドナウ」が使われる場面のラッシュを見ている時、スタッフの一人が過労のため居眠りを始めた。起きて作業をしている面々にとっては面白くはない状況だ。この時、苛立ちを紛らわせるために当時キューブリックのアシスタントを担当していたアンドリュー・バーキン(後に「薔薇の名前」「ジャンヌ・ダルク」などの脚本を担当)が、思い付きで「ドナウ」のレコードをかけてみた。「ドナウ」のメロディと場面がシンクロする。その効果に最も強く反応したのはキューブリックで、「今のは天才のなせる業か、それとも狂気の沙汰か、どっちだと思う?」と居合わせたスタッフに語り掛けたそうだ。これは編集作業が始まる(1967年秋)まで1年以上ある時期のことだったというから、恐らく1966年の春頃のことだろう。

 さて、私個人は中学生の時に映画「2001年~」を見て「ドナウ」を好きになり、さらにはクラシック音楽にも興味を持ったのだが、当時からどうにも気になっていた点がある。それはこの美しい曲が編集上の都合とはいえ「2つに分割されていた」ことだった。本編を鑑賞中には大して気にはならないのだが、サントラ盤もご丁寧に映画通りに分割されているので、一曲の音楽として鑑賞したい時にはフラストレーションがたまったものだ。そして「なぜキューブリックはこの曲を2つに分けたのだろうか?」ということを漠然と考えるようになった。この疑問は当該の場面が「人類が宇宙にたどり着いた」ということも表現する場面であることに気づいた時点で氷解した。

 モノリスによって進化の過程を経た人類は、骨から軍事衛星や宇宙船へとその「道具」も進化させ、その支配領域を地球から宇宙、月面へと広げていった。月の地層で発見されたモノリスを人間たちが囲んで記念写真を撮ったとき、モノリスは木星へ向けて信号を発信することで、人類を導く次の目的地を示すことになる。その後に行われるディスカバリー号の探索は船名の通り、まさに「人類の次のステージへの入り口」を「発見(ディスカバリー)する旅」であり、これによってボーマン船長は「スターチャイルド」へと進化する。だからそこから振り返って考えると、「オリオン号の宇宙ステーションへの旅」と、「エアリーズ号の月面基地への旅」は、人類の歩んできた道程の「締めくくりの旅」となるのだ。
 さらに細かく定義するならば、最初の軍事衛星やオリオン号と宇宙ステーションのランデブーは「人類はここまで進化した」ことを表す場面であり、続くエアリーズ号の旅は「その延長」でしかない。
 そしてワルツ「美しく青きドナウ」という曲の構成から考えてみても、結果的に映画で2つに分割されたことには意味が出てくる。「ドナウ」は序奏から始まり、誰もが知るメロディの「第1ワルツ」のAパートを皮切りに、Bパート、「第2ワルツ」のAパート、という具合にABパートを繰り広げながら「第5ワルツ」のBパートでその盛り上がりは頂点を向かえる。その後は「第3ワルツ」のAパートに導かれて「第2ワルツ」へ、という形で展開する「コーダ(後奏)」となる。

 さあ、この認識を持った上で、改めて「2001年~」の場面を見てみよう。「月を見る者」が放り上げた骨は落下していく中でジャンプカットで宇宙軍事衛星へと「進化」する。「ドナウ」の序奏が静かに流れ始める。ワルツの調べに乗ってその他の衛星、ステーションへ向かうオリオン号、その機内の様子、回転する宇宙ステーションなどの様子が描かれ、「第5ワルツ」のBパートが高らかに奏でられてワルツと場面は鮮やかに終わる。
 そう、正に「オリオン号」の旅は、すべての人類の進化を象徴した形で「ドナウ」のすべての楽想(第1から第5ワルツまで)を伴って終焉するのである。「第5ワルツまでがすべてを表現している」ことは、「ドナウ」の合唱バージョンがコーダを伴わず、「第5ワルツ」の終了とともに急速に締めくくられて終わることからも分かると思う。その後のエアリーズ号の旅では、それまでの楽想を繰り返した「コーダ(導入部は省略される)」が最後まで演奏されて終わる。それは「月面基地への旅」自体が「人類の歩んできた道のりの〝コーダ〟」であることを示すことになっているのである。これらの符合はもちろん単なる偶然かもしれないが、だとするならば実に偉大な偶然だと思う。

 ところでウィンナワルツを正しく演奏するには「ウィーンで産湯を使った者でなければ無理」といった表現がよく使われてきた。実際、今や世界的な名物である「ウィーンフィルのニューイヤー・コンサート」の創始者であるクレメンス・クラウスや、25年にわたって同コンサートの指揮棒を振ったウィリー・ボスコフスキーらは正に「ウィーンっ子」であり、その洒脱で粋な音質は格別なものがある。そういった意味ではエーリッヒ・クライバーもまた、ウィーンっ子としてシュトラウスのワルツを振る適任者として数えられていたが、その息子のカルロスはベルリン生まれでアルゼンチン育ちではあったものの、やはり「ウィーンフィルによるウィンナワルツの独特の軽やかさ」を体現して見せていた。一方で1987年のコンサートで指揮を務めたヘルベルト・フォン・カラヤンの場合は、ザルツブルグ生まれという出自や、ウィーンフィルとの蜜月状態が長かったことからも、軽やかさを保ちながらも「帝王」としての重厚さも垣間見させる演奏で聴衆を魅了してきた。

 では「2001年~」の劇伴として使用するには、この「ウィンナワルツ特有の軽やかさ」は必須条件だったのだろうか?私は「否」と思う。

 前述したように、「2001年~」の当該場面ではある種の「諧謔性」もキューブリックは求めていたし、それはこの場合は宇宙船とステーションによるランデブーの持つ「美しく華麗な舞踏的印象」と、そこに内在する「人類の軍事的対立と繰り返される愚行」に対する「対位法的な皮肉」だと考えていいだろう。だからこそ、そこで奏でられる演奏は「舞踏的な軽やかさ」よりも「鑑賞音楽としての重厚さ」が優先されたのだと思う。そういった意味では、最終的にキューブリックがカラヤン指揮のベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏を選んだのは見識だと思うのである。

 キューブリックが当該の場面に「ドナウ」が完璧にフィットすると考えたのは1966年半ばのことだったが、彼は翌年末までの間に、実に25種類の「ドナウ」を聴き比べてベストな演奏を探し求めたという。一方のカラヤンだが、彼は1946年のウィーンフィルをはじめとして度々「ドナウ」の録音をしてきた。「2001年~」の公開前には4回、公開後にも4回。計8回である。公開前の4回に関して言うと、最初が46年のウィーンフィル、次が55年のフィルハーモニア管弦楽団とのコラボ、58年は再びウィーンフィルだが、これはブリュッセルで開かれた万博記念コンサートのライブ録音であり、しかも珍しく「合唱版」だった。その3年前の55年にカラヤンはベルリンフィルの常任指揮者に就任しているが、彼は潤沢な国家予算を使って世界中から有能な演奏家を集め始め、楽団のレベルを飛躍的に向上させる。そして60年代になると精力的に自らのビジョンを反映した演奏の録音を行っていく。そして66年の12月末にカラヤンはその時点で考える「最高のドナウ」を初めてステレオで録音するのである。
 レコードのリリースは翌年になるが、まさにこの時期はキューブリックが自分の望むレベルの演奏を探し求めていた時期だったから、キューブリックがこの演奏をチェックし、最終的に選んだことは奇跡的な出会いとも言えるだろう。46年の演奏も基本的には同じビジョンではあるが、まだ重厚さには欠けるしモノラルだ。55年のフィルハーモニア版には洗練さが欠けているし、58年のライブは論外だろう。それは例えばクラウスやその他の指揮者の場合も同じで、カラヤンのようにシュトラウスのワルツを「踊るためではなく、演奏会で襟を正して鑑賞するレベルの音楽」にまで突き詰めたものは、66年末のこの演奏までは存在しなかったのである。実際、最終的なこの選択にキューブリックはこう言っている。
「カラヤンはやはり世界一偉大な指揮者だね。あの手の曲は非常に陳腐にも聞こえかねないが、最高峰のものはやはりすばらしい」

 ここで時間を少しさかのぼって、話をコーデルに戻そう。実際に作曲作業のための打ち合わせをコーデルが求めると、キューブリックはこれを拒絶した。その理由は定かではないが、どうやらこの時点ではまだ彼の中に明確な音楽的ビジョンが定まっていなかったようなのだ。ただ全体をイメージした楽曲はあって、それはマーラーの「交響曲第3番」だった。この選曲は非常に興味深いものだ。なぜならこの曲の第四楽章にはニーチェの著作「ツァラトゥストラはこう語った」からの引用があり、それが歌詞として歌われているからだ。コーデルは結局、作品に関する映像素材やストーリーすらも明かされずに、ひたすら「マーラーの第3番」の変奏曲を作り続けたそうだが、結局すべてが不採用のまま担当から外されることになる。
 その後、キューブリックは67年秋までに「仮トラック」の選曲を終えていて、楽曲の使用許可が取れればそのまま映画に使用したい意向を固めていた。一方でMGMは映画音楽家に映画のための新曲を書いてもらうことにこだわり、かつて「スパルタカス」でキューブリックと仕事をしていたアレックス・ノースを起用することを求めた。で、これがのちに悪名高き「ノース事件」へと発展していくのだが、とにかくキューブリックは67年11月末に渋々ながらノースに連絡を取り、作曲の依頼をする。
 キューブリックはノースに対し、すでに「仮トラック」としてクラシックの名曲などが選曲されていることを伝え、それが使用されたフィルムリールも見せた上で、「使用許可が下りればこれらの曲を使いたいと考えている」と説明している。ノースとしては他の作曲家の曲と自分の曲が混在することに強い抵抗を感じたし、実際、シュトラウスやリゲティといった歴史的作曲家たちに匹敵する楽曲を書かなければならないというプレッシャーに苦しんだ。しかも契約したのが67年12月の中旬で、レコーディングは翌月の14、15日という過酷なスケジュールだった。そんな状況の中でノースは必死に作曲を続け、なんとか求められていた40分の音楽を書き上げたが、ストレスで消耗しきっていた上に腰も痛めてしまったため、レコーディングセッションには救急車に乗り、ストレッチャーで運ばれたのだそうだ。
 結局、ノースの曲はすべて不採用になったので、この件でノースが受けた仕打ちには気の毒としか言いようがないが、その責任をキューブリックだけに押し付けるのはちょっと筋が違うと思う。ノース夫人が「まるで王様のようにもてなされた」と回想するように、ノースは作曲のための住居、専用のコック、自家用車、優秀な編曲者に十分な報酬が与えられていたし、少なくともノース本人に対してはキューブリックも最大限の敬意を払って接していた。だからこの「事件」は、「仮トラックを使いたいキューブリック」と、「普通に映画音楽をつけたいMGM」との間にノースが不幸にも巻き込まれてしまった、というのが顛末だと思う。

 とはいえ、実際にはキューブリックはノースの曲に対して「まるでゴミだ」と評価している。それは「音楽としてはいい曲だが、この映画には合わない」という意味でなのだが、それは例えば映画の冒頭で使用されるために書かれた曲を聴くとよく分かる。管弦楽が高らかに鳴り響き、派手に盛り上がって終わる曲は、キューブリックが「仮トラック」として決めていたリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」に非常によく似ている。だが問題なのは「似ているだけ」という点であって、シュトラウスと、それ以前のマーラーの場合とノースの曲との違いは、前者は「ニーチェの著作から着想を得て作曲されたもの」であるのに対し、後者は「すでにある曲に似たもの」でしかない。だからノースがキューブリックの期待に応えるには、「ノース自身がニーチェの著作を読んだ上で、そこに着想を得たオリジナル曲」を作曲するしかなかったのだ。スケジュールを考えると、そんなことはまるで不可能なのは明らかなのだが、少なくともキューブリックが求めていたものはこういうことだったはずなのだ。

 ではなぜニーチェの「ツァラトゥストラ~」がそこまで重要なのだろうか。

 「2001年宇宙の旅」は難解な映画として知られているが、多くの解説などでは、「モノリス(宇宙人、神)の助けによって猿からヒトへと進化した人類が、次の段階たるスターチャイルドへ進化していく様を描いた作品である」と説明されているケースが多い。これはこれで間違ってはいないのだが、説明不足というか、表面的すぎるところがある。「それが何を意味するのか」を語られることがあまりないのである。これではなぜ作中で「ツァラトゥストラ〜」が3回も使われているのかが分からないと思う。

 「人間を超えた者」として「スターチャイルド」を捉え、これをニーチェが「ツァラトゥストラ〜」で述べた「超人思想」に結びつけることでシュトラウスの曲が表す意味を見出すのが一般的だ。では、その「超人思想」とは何か。「ツァラトゥストラ〜」では「神は死んだ」という言葉が特に有名で、これが一人歩きしてしまっている感があるが、平たく言うと、「現世を否定して山に籠もったツァラトゥストラが、長年の修業や思考の末に悟りの境地に達したことで、『あらゆるものを肯定できる境地』に達し、これを『超人』と呼んだ。人は誰でも努力し、学び、思考を重ねることで『超人』になれるし、それによって世の中のすべてと争わずに共生できるようになる」というものだ。そうなるともう人生において神頼みなどすることなどなくなるわけで、「神は死んだ」という意味は「神はもう必要ない」という
意味と同義だと私は理解している。

 シュトラウスの曲(導入部)はすべての出発点である「自然」を描いた「自然の動機」によって構成されている。映画では使われていないが、導入部以降には「人間の動機」も登場し、最後にはこの2つの動機が巧みに配置されて「共生」を表している。決して融合することはなく、あくまでも「共生」していくことを音で表現しているわけだ。

 では「2001年宇宙の旅」で描かれている「共生」へのメッセージはどういうものなのか。それは「種の違いを超えた人類の共生」であり、やはりすべてを含めた「自然との共生」でもある。冒頭部での主人公である類人猿「月を見る者」は、モノリスの導きによって動物の骨を「武器」として用いることを学び、これによって生存における圧倒的優位性を獲得して進化の第一歩を踏み出すことになる。それは偉大な一歩ではあるが、それまでの「共生」が破壊された瞬間でもある。平和主義的に考えれば、ここでモノリスが干渉しなければ地球には平和な共生状態が続いたので、「余計な干渉である」と指摘することもできるだろう。だが地球という惑星の支配者が何らかの形で台頭していくのは時間の問題なので、そういった意味ではモノリスが干渉したことで生じた「共生状態の終焉」は進化に必要な通過儀礼だったことになる。
 数え切れないほどの対立、殺戮などを経て、やがて人類は宇宙へと進出する。この場面は「月を見る者」が空中に放り投げた骨がジャンプカットで宇宙船に切り替わることで映画史に残る名場面になったのだが、厳密に言うとこれは「宇宙船」ではなく軍事用の「核ミサイル衛星」だった。劇中でこのことが言及されることはなく、あくまでも映画の製作段階での設定なのだが、各衛星には米国、ソヴィエト、中国など大国の国旗が描かれている。クラークの小説版では物語の最後に地球の軌道付近に現れたスターチャイルドに対し、人類がこの衛星から核攻撃を仕掛けるが、スターチャイルドがこれをあっさりと処理してしまう描写があるが、これも設定の名残である。とはいえ、劇中での人類間の軍事的対立は宇宙ステーションなどでの会話で十分に仄めかされているので、ミサイルへの言及がなくても理解できるようになっている。
 モノリスによって最初の機会を与えられた人類は「対立と戦争」という時代を生き、発展してきた。それは兵器による戦争と殺戮の歴史でもあり、サルからヒトへと進化した数万年の間にも、人類は同じことを繰り返している。そのフィールドが地上から宇宙へと発展してさえもである。すでに人類すべてを滅ぼすに足る兵器を抱え込みながらもなお、人類は互いを信頼せず、利権を優先し、大局的視点を欠いた日常を過ごしている。理屈はどうであれ、やっていることはヒトもサルも変わりはないのである。
 期せずして人類を代表する形となって木星へ旅するボーマン船長は、人類が生み出した最高の叡智の結晶であるAI「HAL9000」と対決することになる。それはあたかも人類に課せられた「最後の試練」のようでもある。ボーマンはHALを出し抜くことで試練を乗り越え、無事に木星に到達する。そのボーマンに対し、モノリスが行った「第2の機会」によって、人類は再び「共生」が可能になる境地へと進化する。これがスターチャイルドという存在の意味するところだ。そう考えると「2001年宇宙の旅」という作品は非常に哲学的な「反戦映画」とも言えるが、それはニーチェが19世紀に「ツァラトゥストラ〜」で訴えたものと同じものなのだ。そういった意味では、「ツァラトゥストラ〜」が世に出た後も、ニーチェのメッセージは世の中では理解されず、ニーチェが絶望の中で発狂し、やがて死んでいったことは皮肉な事実だとも思える。なぜなら「2001年宇宙の旅」も公開から半世紀以上が過ぎた今でさえ、「反戦メッセージ」を受け止める観客は稀だと思うからである。

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