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落語の稽古

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落語塾での稽古模様を記事にしています。
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2021年10月の記事一覧

古典を500回読むのと同じ効果が落語にはあるのではないか

以前、稽古は「最低100回」の話をしました。 稽古100回は素人落語レベルになります。 プロの噺家さんは稽古や本番を合わせると、100回どころではないでしょう。 ネタによっては、500回や1000回以上していることもあるかと思います。 文華師匠は本を読まれないそうです。 ただ、ひとつのネタを500回も稽古や本番をしているとすると、 同じ本を500回読むことと同じだと僕は思っています。 しかも落語のネタは、古典レベルの教養がある(と思いたい)ので古典を500回読むのと同じ

落語のリズム

今、落語のリズムに関心がある。 あるグループで話題になったからだ。 以前、八拍のリズムを聴いたことを思い出した。 歌舞伎などのセリフ回しは七五調で進められているそうだ。 セリフと間を合わせて八拍になるように構成されている。 聴くのに心地よいリズムなようだ。 落語も同じでないかと、僕は思った。 以前、落語発表会で七段目を演じた。 歌舞伎芝居のネタで八拍のリズムがわかりやすいように感じた。 【参考】柳亭市馬師匠の七段目 https://www.youtube.com/wa

間延び・間を詰める

今回の発表会で演じる噺は長めで短くする作業が必要であるのですが、どこを切ればよいか迷ってしまいます。 文華師匠にすすめられのは、「ここが面白い!人に伝えたい!」と思った箇所を残せばよいとのこと。同時に間を詰めることが大事だとも言われました。 噺が長くなる原因は「間延び」にあり、詰められる間を詰めることで自然と時間が短くなります。間を詰めるとテンポもよくなり、聴きやすくなるので一石二鳥です。 台本見直しよりも間を詰める稽古をたくさんすることのほうが大事で、そのためには台本

登場人物の”気”になる

落語を演じる時に大切な要素として、登場人物の気になることが挙げられます。これがなかなかむつかしいです。 自分では登場人物の気になって演じているつもりでも受け手に登場人物が視えていない。その状態では噺が入ってこない。 そもそも演じると思っている時点で、受け手に噺が入ることはないのかもしれません。 登場人物そのものになっているからこそ、噺となるのだろうか。あー、むつかしいな~ ひとつ言えることは、稽古しろっていうことかな。。あとひと月で発表会だ。稽古しよ。

稽古場所に向かう

稽古をどこでやるのか。結構重要です。 家の中でガチでやると、うるさいと家族に文句言われるし、ご近所の迷惑になります。ギリギリお風呂はOKだけども、僕はカラスの行水なので、お風呂の選択肢はない。 早起きして、鏡の前で、ぼそぼそいいながら、稽古をする。ぼそぼそなので、声を張り上げる稽古はむつかしい。 一番の稽古場はなんといっても、車の中である。車の中だと、大声張り上げても、迷惑はかからない。思う存分稽古ができます。 ただし、横づけされた車のドライバーに稽古姿を観られるリスク

台本の覚え方

文華師匠に落語の稽古をつけてもらうときにソッコーでバレることがある。それは、台本を覚えていないことだ。 具体的には台本を頭で思い出しながら話している状態だ。聴かされる側にとって、一番キツイ状況だと思う。話す側はその場においては懸命なのだろうが、聴かされる側はたまったもんじゃない。内容がグダグダだからである。 台本を覚えている定義とは、セリフが肚に入っていること。いちいち思い出さなくてもスッと話ができるという状態になる。実は落語の稽古はそこからが本番でセリフが肚に入っていな

稽古あるのみ

落語発表会まで1か月を切った。稽古をしながら登場人物のキャラ設定が固まってきた。 自分が面白いと思うキャラの設定で噺の文脈が変わってくる。同じ噺なのにキャラへの解釈で違う噺に見えてくるところが落語を演じていて楽しいところである。 そう思うと、高座に座って噺するというのは、自分の解釈した噺を聴き手のみなさんに問うている状態なのかもしれない。「ちょ~、聴いてや、最近な、こんなアホにおうてな・・・云々かんぬん」という感じだ。 問える状態になるように稽古が必要なのだと思った。聴

画面の中で稽古する

毎朝、呼吸法の稽古に参加している。15分間呼吸に集中する稽古である。参加メンバーは呼吸に集中しているが、僕は落語の稽古をしている。 音声をミュートで、早朝なので家族を起こさないように小声で稽古している。しかし、主人公が切れるシーンがあるため、声が漏れてしまう。漏らさないように気をつかっているのだが、稽古に気を持っていかれるため、どうしても漏れてしまう。漏れてしまうのを漏らさないようにしているさまが、画面上からメンバーに伝わるようで、噺の内容がわからないのに、吹き出してしまい