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持続可能な精神エネルギーについて(仮)雑記_7.ⅱ
しんどいことが10あっても、
楽しいことが1つあれば、救いがある。
もし何か、迷いがあるとき、一つの指針となるかも知れない言葉。
時に、、
何も感じないように、
心を閉じてしまうようなことはないだろうか?
怒り、悲しみ、寂しさ、といった感情を心が受けたとき、それを言葉に出したり思ったり出来ているうちは、まだ大丈夫なのだと言える。
良くない状況というのは、それを受け切れず、
心を閉ざしたときである。
きっと、人の生理的な機能として、心を閉じるのだろう。
偏った大きな感情を、心は受け切れないから、たまに蓋をすることによって調節するのだ。
心の中で、それが消化されるまで。
しかし、稀に蓋をするのが間に合わず、
もしくは無理矢理に感情を注ぎ込まれたとき、
心は枯れるのだろう。
感情は心のエネルギーなのだ。しかし、どんなものでも、与え過ぎれば枯れてしまう。
植物をイメージすると分かりやすいと思うのだが、水や栄養、太陽の光だろうと多過ぎれば枯れてしまう。
負のエネルギーなら尚更だろう。
そういう意味では楽し過ぎても、
人は心を枯らすのかも知れない。
先日、私の心は枯れ果てた。
言葉も感情も何処かに消えた。
しかしながら、翌日、生活の為に出掛ける。
そうこうしていれば、幾分か、ましな精神状態となる。
ふと、心が消え去ったときの事を思い、
其処に渦巻いたと思われる感情を、多少の言語に紐解いていく。
頭の中の集中治療室で繊細な施術が行われた結果、それは、蘇生か、はたまた、再生か。
一先ずは、御の字と言った処。
それはこの様な言葉かも知れない。
記録
「本当に、無為にされた。
君らの為にやってきたのに、私の存在を其処らの石ころのように君らはしやる。
心の無い人間などいないというが、
心の無い人間が目の前にいる。
よくぞ、そこまで自分さえ良ければよいという
生き方が出来るのだろう?
君らの為に、どれだけ泥を被ってきた?
責任は1ミリたりとも取りたくはないのは知っている。だが、その責任は誰が取ってきた?
それでも、弱者だからと自分を諌めてなんとか
折り合いをつけているのに。
君らはいつでも踏みにじる。
弱者はいつも悪くないのだ。
そうして、私の心は枯れたのだ。
救いようの無い馬鹿に、何度も心を消されてきた。
心が消えてなくならないように、
私は悪人でいようと思う。」
術後
私の価値観は変わっていた。
私は悪人になることにした。
、、、それも悪くはないだろう。
例えば、物事を進めるとき、誰かが悪にならなければ、遅々として、ならまだしも、始まることさえしないことも起こりうる。
良くなかろうが、間違いかも知れなかろうが、
始めなくてはならない。
誰も助けてくれない、気づいても素知らぬふり。
私が悪人であれば、それは当然、然りである。
悪人であれば、綺麗事も言わなくてよくなる。
悪人であれば、正しいと思うことを言って嫌われても、それは私が悪人だからで済む。
疑わしくは斬る。
悪人だから、自分を信じて生きていけるのでは
ないだろうか。
悪人というリスクを背負う。
そうだ、、、私の悪の道の第一歩は、
志々雄真実のフィギュアを買うことから始めよう。
悪人?いいや、極悪人だぜ?
それでは、おやすみー
END
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