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境を揺蕩う


『複数の言語で生きて死ぬ/くろしお出版』
に私は衝撃を与えられた。
言語学関連の書籍を買うために書店に訪れていた私に、この本は静かに訴えかける。
知らず知らずのうちに手に取り、頁を捲る私がそこにいた。
そして、終いにはその本を持って会計を済ませてしまっていたのだ。
私は冒頭にも書いたように、この本に衝撃を受けた。
私の心の霧が晴れるような、私の感じている違和感に答えてくれるような、そんな本であった。
それを読んでの私の感想、考察、(と書きつつも大それたことは書けないが)、を書き綴りたいという想いが、この記事を執筆した原動力だ。
(※ここでの内容は、あくまで個人的な意見であることに注意されたい)


まず私が感じている違和感について論じていきたい。
それは、日本において、クルド人問題をはじめとした外国人に厳しい目を向ける傾向だ。
管見ながらクルド人問題については、ほんの最近までは知らなかった。
しかし、大学の講義でたびたび話題に上り、また『世界/岩波書店』を読んだことで、この問題を認知するようになった。
ネット上では根も葉もない噂を、あたかも日本を侵略しに来たが如く囃し立てている。
だが、彼らが何をしたというのだろうか。
確かに問題を起こしたという事実はあるかもしれない。
しかし、我々は何か支援を行っただろうか。
もしかすれば、日本語が分からないのかもしれない。
それに、日本語が分からなければ何もしようがないではないか。
様々な可能性を考えて、彼らに寄り添おうとしただろうか。
互いに助け合おうとはしないのか。
彼らを知ろうと、日本でのルールなどを教えようと尽力しただろうか。
実際、そういった支援は十分でなかったに違いない。
それに、その問題自体、それ以前から存在していた可能性はないのだろうか。
なぜ、他者に寄り添わず、一方的に敵意を向けるのだろうか。

このような一方的な「敵意」を外国人に向けるのは私は以下の要因があると考えている。
それは、日本人が持つゼノフォビアと単一民族国家主義だ。
日本は他の先進国と比べ、移民や難民の受け入れには依然として厳しい態度を貫いている。
それ故に、特定の地域以外で外国人と接する機会は相対的に少なくなっていると思われる。
それに日本は、言うまでもなく島国である。
他民族と関わることも他地域に比べて少なかったはずだ。
そういったことが重なり、日本人には「日本=日本語=日本人」という概念が堅く固定されている。
これは『複数の言語で生きて死ぬ』でも度々記述されているし、関連する記述がある論文もある。
それゆえに、日本はあたかも日本人だけで構成されているように感じている、すなわち単一民族国家主義が根強いのではないかと考えた。
加えて、外国人に慣れていないからか、「外国人嫌い」を引き起こしている。
世代や男女間の差はあるだろうし、何より個人差もあるとは思うが、そういった感情を持っている人は少なくはないと私自身感じている。
ブレイディみかこ氏の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でも、日本でのゼノフォビアを象徴するような場面(少なくとも私がそう感じただけであることに注意されたい)を描いた章があった。
外国人嫌い、すなわちゼノフォビアから「外国人=よそ者」だったり、怖いといったネガティブな感情を持つ人は、少なくとも日本において一定数存在はしている。
それは、「知らない」からであり、「知らない」からこそ「怖い」といったネガティブな感情が惹起される。
私はそのように思うのだ。
加えて、知ろうとさえしていないのではないかと思われる。
知ろうともせず、ただネット上の根も葉もない噂に流され、その意見に追従する。
そんな状態では何も変わらないだろう。
文化や言語が違えば、互いに衝突することも当然ある。
それを乗り越えるためには、変わろうとすること。そして何よりも他者を知ろうとすることが重要だ。


『複数の言語で生きて死ぬ』(以外、本書)では、「あいだ」に住む人、「境界」に生きる人たちに焦点を当てている。
そして、題にもなっている「複数言語使用」を取り扱う。
本書のことばを借りるなら、「境界」は「可変的な幅を持つもの」で、それゆれに「人がとどまりうるもの」としている(『複数の言語で生きて死ぬ』まえがきⅲ/山本冴里)。
つまり、国境のように一本の線で区切られているものではないということだ。
本書では、日本国内のみならず、世界各地を取り扱っており、テーマも多種多様。
危機言語話者や少数言語話者、日系人、バイリンガルやマルチリンガルたちのバックグラウンド。
また、言語が通じないことで生じる壁について、さらには手話などについても、各執筆者が珠玉の文章で世界を展開している。
全11章で構成されているのだが、その全ての章それぞれに味があり、その世界観に引きずり込まれる。
書店で購入したときは言語学の棚にあったが、言語学に関心のない人も読むべきと思える良書だ。
本書において、個人的に興味深かった記述が二つある。
手話に関する話と、日系人に関する話だ。
1つ目の手話について、私は手話自体に触れたことはあるものの、手話について何も知らないに等しかった。
「手話」は手話一つで構成されているとさえ思った。
しかし、実際にはそれは全くの誤解であったことをこの本書から教えられた。
世界共通では当然なく、日本は日本であり、アメリカならアメリカ、イギリスならイギリスと各々の国で変わる。
(以下の平 英司氏のコラムを参照すべし)

さらに、実は、ろう者間でも差があり、ろう者と、中途失聴者及び難聴の方とでは使用する手話が違うという。
前者を日本手話、後者を日本語対応手話という。
(以下のサイト等を参照されたい)

その事実に、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
本書で対応する章では、手話をテーマとするミステリーである『デフ・ヴォイス/丸山正樹』に沿って、この話題を描いている。
この章では、他にも異なる二つの作品とこの『デフ・ヴォイス』を中心に、「あいだ」をテーマに書かれている。
『デフ・ヴォイス』の主人公は、CODA(コーダ)という「ろう者」の親を持つ「聞こえる」子であった。その主人公が紆余曲折を経て法廷の手話通訳士となって云々という内容の話である。
本書的に言えば、「「境界」にとどまる」一例であり、その複雑な立場における葛藤を描いている、そんな作品が『デフ・ヴォイス』である。
この章では、執筆者自身の体験も交えて「あいだ」という境遇を描いている。
この「あいだ」というテーマは、今一度考える必要のあるテーマなのではなかろうか。

2つ目に、日系人について。
本書を読んでいて、最も心に刺さった記述の一つが、日系人のこのことばだった。
「日系人は許されないんです」
一体何が許されないというのだろうか。
曰く、「見た目」は日本人のくせに「日本語が変」だからと。
「見た目」が※「ガイジン」なら、※「ガイジンだから仕方ない」と日本語が変でも許されるのに。
(※本書での記述をそのまま用いた)
そういった「悔しい思い」はわかってもらえないと。
そう記されていた。
これは先にも記したが、「日本=日本語=日本人」というイメージに固く縛られていることが大きく影響しているのだろう。
「日本=日本人」という印象の人が、肝心の「日本語」が下手であるがために、印象の齟齬を来す。
日系人にも背景は様々だが、我が子に母語をさしおいて日本語を学ばせようとする親もいるらしい。
なぜなら、日本語ができれば大学へ進学し、いい仕事に就ける可能性がでるからだと。
この章では、「伝わらない」不自由さをテーマに書かれている。
一日本人として、特に日系人の方の話には複雑な心境に陥った。
いわゆる「強い」言語を使用する人たちは、あれこれ「理想」を振りかざす。
しかし、「弱い」言語使用者はそうはいかない。
生活するために仕事を探そうにも、良い仕事は「強い」言語ができなければならず、「弱い言語」だけでは選択肢が限られてしまう。
それ故に、「強い言語」を学ばざるを得ないのだ。
そういった話がこの章では展開されている。
複雑な環境、「あいだ」に存在するということ、「伝わない」思い。
本書を通して私は、私自身のことについても思考を巡らせていた。


私は、カミングアウトすると「吃音症」である。
言語障害の一つである。
この吃音という症状、説明が難しい。
というのも、症状やその程度は人それぞれ。
さらには、その本人でさえ、症状や程度の「波」がある。
私自身は吃音が頻繁に起こることもあれば、全く吃音が起こらないこともある。
吃音の程度も、過去には難発で1分程度かそれ以上発音できなくなることもあったし、逆に数秒程度で発音できることもある。
この「波」というのは、私個人の感覚であり、特定の用語があるわけではない。
あくまで、私の経験から「波」という表現が適すると思い、そう記した。
「吃音症」で検索すると様々なサイトが出てくるだろう。
症状に関しても様々記述があると思う。
だが、吃音持ちから言わせれば、書いたところで「伝わらない」
繰り返し/連発とか、難発とか、伸発とか、例を交えて説明したところで、「普通」の人には伝わらない。
たまに友達から、「噛む」(「セリフを噛む」などの「噛む」)ということばを用いて私の吃音のことを言われたりするが、それとは全くの別物だ。
「噛む」とは全く異なるし、あの焦れったい気持ちが、「普通」に喋られる人にわかるだろうかと問いたい。
私自身は難発が多く、その程度に差はあれど、特にサ行が言いにくい。
吃音が半ばトラウマでまともに交友関係を持とうとさえできない。
それは言い訳だと非難されても構わない。
事実、それもある。ただ「逃げている」だけの現実逃避だ。
ただトラウマというのは簡単には拭えない。
何気ない日々の中でも、気が滅入っているときはふとしたことから「過去」が思い起こされる。
難発で、単語が出てこず、別の言葉に置き換えたりしてしまうこともある。
ありのままの「自分のことば」ではなく、「その場しのぎのことば」を使ってしまう。
それは、もはや私にとって必須スキルである。
この本書を読んでいて、時折自分と重なり、「自分」について考えてしまった。
吃音は、ことばを選ばずに言えば、「外見」からわかるものではない。
だからあの日系人の方が感じていたような「伝わらない」もどかしさを私も感じる。
私自身は、吃音なども本書のいう所の「境界」に該当すると考えている。
どこにも属さない、属し得ない曖昧な立場だと私は、私はそう感じる。
どう工夫しようと普通の人には体験さえしてもらえない。
このもどかしさが少しでも、ほんの少しでも「伝わってほしい」と願う。
そして、だからと言って特別扱いしろとは言わない。
ただ「知って」ほしい。
そういう人もいるのかと、視野を広げてくれるだけでいい。
自分が「普通」と思っているならば、「普通」を疑ってほしい。
「普通」とは違うこともあるという事実を「知る」ことで。


話を戻して、この本書から「今」の日本に必要なことは何かまとめていきたい。
一つは何度も繰り返しているように、「知る」ことから始めなければならないだろう。
そもそも知らなければ、寄り添うこともできない。
この記事ではクルド人問題を話題に挙げた。
無知ゆえに世間の噂に流されるのは、共犯とさえ言える。
実際問題が起きたなら、なぜ起きてしまったのか、その原因を探る必要がある。
もし言語が壁になっていたなら、日本語学習の支援を行う。
もしルールを知らなかったのなら、それを教えてあげればよい。
そんなもの知っておけとかほざく輩も出てくるとは思うが、酷な話だとなぜわからないのか。
お前が例えば、日本語が全く通じない地域に住むことになり、「これがこの地域におけるルールです。目を通しておいてください」と知らない言語で書かれたマニュアルを渡されて納得できるだろうか。
全く知らない言語で説明されても、ひとつも理解できないのではないか。
そういった可能性も考えなければならない。
日本は難民も、移民でさえも厳しい対応をしている。
しかし、いよいよ日本の門を開ける時なのではないのか。
ウクライナ難民は受け入れて、他の難民は冷遇するのか。
そんな「無能」はいないと思うが、まさか「そんな無能」に心当たりがあるわけないだろう。
治安やら何やらにかこつけて、難民受け入れなどに批判的なら、それはお門違いだ。
犯罪なら日本人も起こしているではないか。
それは気に留めないのに、「非・日本人」になった途端に神経質になる。
全く愚かではないか。
何も侵略しに来たわけではないのに、道聴塗説を振り撒かれて、いい迷惑だ。
しかもそれはSNSなどを通じて拡散され、雪だるま式に膨れ上がった噂は留まるところを知らない。
そんな状態でよいのだろうか。
改めて考えてみてほしい。

さらに挙げれば、「普通」を疑うことも必要だろう。
「日本での普通」は、一歩この島の外に出れば、もうそれは「普通」ではなくなる。
郷に入っては郷に従えと言うが、頭にこびり付いたその「馬鹿馬鹿しい常識」を綺麗に削ぎ落して世界を見るがよい。
そうすることで、ようやく視野を広げられるだろうし、視界も良好になるだろう。
私の今住んでいるこの某市は、外国人も多い。
住んでいる人も留学生も観光客も。
電車に乗れば、毎日のように外国人に会うし、出会う人も様々だ。
バイト先でも多様な人が買い物に来る。
聞こえてくる言語も様々。
みんないい人ばかりで、やたら大袈裟なところはあるが、そこらの高齢者よりも礼儀を弁えている。
「すみませーん、○○ありますか」と聞かれることもあるし、商品を指さして「これと同じで、箱ありますか」と工夫を凝らしている人もいた。
私は「日本人」に対する対応と変わらず、商品があれば案内したり、なければ謝罪のことばを述べる。
謝罪を述べると、そのお客さんは丁寧に礼を口にする。
時には、驚きと共に残念そうに、
「あーっ、そうっ!」
「これ美味しいの(だから欲しかった)」
と語ってくれるお客さんもいる。
その時には、私も、人付き合いは苦手でも、簡単に相槌を打って軽く会話を交わす。
変に特別扱いをするでもなく、「普通」に対応する。
私も言うなれば、「あいだ」にいる人だから。
私自身、前述したように特別扱いはされたくないから。
一人ひとり、多様なケースがあると考えられるようになることが、理解への第一歩だろう。

多様なケースを知り、視野を広げる。
その役割を『複数の言語で生きて死ぬ』は十二分に果たしてくれる。
自分の悪性腫瘍を切り落として、状態を改善してくれる。
各章末には読書案内もあり、さらに話題を深堀できるのも、この本書を良書たらしめる点だ。
他者と分かり合うことは簡単ではないと、既に理解しているはずだ。
それを理由に相互理解を放棄するのは、「逃げ」でしかない。
日本には多様な人がいる。
多様な背景を持つ人が、多様な暮らしをしている。影で日本を支えてくれているのは、実は外国人かもしれない。
そんなことも考えずに、ネット上の誹謗中傷に踊らされるのは、それこそ「無能」だ。
自国のことになれば、口うるさくわめき散らすのに、その焦点が他国・他民族に移れば「他人事」
いつまでそんな戯れ事を続けるのだろうか。
我々も間違いなく当事者ではないのか。
いつまで「他人」のふりを続けるつもりでいるのか。
もうその色眼鏡を外すべき時ではないか。
政府も、いよいよ正面からこの問題を受け止めるべきだ。
凝り固まった考えをほぐし、この「多様性」の世界、「グローバル化」する世界を、真に実現しようではないか。
いつまで「殻」に閉じ籠ったままでいるのだろうか。今こそ、その殻をうち破るときではないのだろうか。
その殻を破り、曙光を浴びようではないか。
境界は貴方が考えているよりも「可変的」なのだ。


※以下に『複数の言語で生きて死ぬ』のリンクを貼っておく。是非お手に取ってほしい一冊。

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