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わきまえる書き手でありたい

ストーリーに
興味を持ったきっかけを
書きました。

これと同時に書いておきたい
と思っていたことを
もう一つ書きましょう。

「̪シネフィル」という言葉があります。

「cinema(映画)」と
「phil(愛する)」を
掛け合わせた造語で
(ともにフランス語)

「映画通」「映画狂」
といった意味があります。

どちらかというと、
インテリっぽい層に
当てはめて使われる場合が
多いような気がしますね。

実際、インテリな人で
映画好きな人は多いです。

映画も芸術の一つですからね。

映画に対する造形が深いのは、
一目置かれることです。

私も映画が好きです。

でも、こういう
「シネフィル」みたいなのとは、
距離を置きたいんですね。

一緒にされたくない気持ちがあります。

そう思うようになったきっかけは、
以前、どこかで読んだ
糸井重里氏の話がきっかけでした。

どの本に書いてあったか、
記憶が定かではないので、
正確な引用はできないのですが、

糸井重里氏はシネフィル的な人が
苦手だそうです。

なぜ、苦手かと言うと、

映画の作り手の話を
まるで自分が作ったかのように
誇らし気に話すのが
鼻もちならないんだそうです。

この発言を聴いて
「すごくわかる!」
と思いました。

私もそういう感じの人が苦手です。

自分で作ったわけでもないのに、
人の作品をどうこう言って、
ドヤ顔する人は

ハッキリ言って嫌いですね(笑)

私もこの note でも
散々、映画や本のことを
書いてきましたが、

そうならないように、
(つまり自分の手柄みたいな)
注意して書いているつもりです。

それでも、私も人によっては、
そう捉えられる場合が
あるかもしれません。

それは避けられないことなので、
いくら考えてもしかたないのですが、

少なくともそういう風に
見られないように
ということには、
注意を払っているつもりです。

世の中には
勘違いしている人も多いんです。

まるで、自分が偉いかのような
尊大な振る舞いをする人がいます。

私はそういう人の論評は
聴く価値を感じません。

聴きたくもないんですね。

なので、私は
世界が閉じたマニアとは
つながりたいとは思わないんです。

自分にとって、
得るものが何もないからです。

大体、そういう人は、
感謝の気持ちが足りない人が
多いですね。

目の前にあるものが
すべて当たり前だと思っている
節があります。

ここのところは
私も見失わないようにしたいんです。

いろんな人が
頑張ってくれているおかげで、
いろんなことを楽しめている
わけですから。

そういうことを一切忘れて、
自分の好き勝手に、
ものを言うのは、
恥ずかしいことだと思います。

「表現の自由」
とかいう言い方もありますが、

それを見ない、
聴かない自由もあると、
私は思うんですね。

まず、拒否権を尊重しよう
という考えです。

なので、私は公共の場と
私的な場をわけて考えます。

私にとっては、
ほとんどの場が公共の場です。

この note にしても、
それを用意してくれた方々がいて、
それを運営してくれている方々いて、

そこを間借りして、
私たちは表現しているのに、
過ぎないんです。

「無」から何かを
作ったわけではないんですよね。

なので、こういう場は、
公共の場なんです。

振る舞いに気をつける必要があります。

私が完全に私的な場といえるのは、
自分の家だけです。

ここで私が何をしようが、
何をどう言おうが、
勝手なんです。
(他人に迷惑をかけない限り)

これからも、
そういうことを大事に考えて、
ここで記事を書いていきたい
と思っています。

※何かあったわけではありません。
 ただ、前から「言いたい」
 と思っていたことなので、
 書いてみました。

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