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わたしもあなたも、そだつのをやめるのだと思う(演劇論②)

 幸運なことに、大学にいて、ぼくは全然関係していないのだが演劇をやっている人に出会うことがある。それも、去年の初めごろから、詩の授業で、いい詩を書く人はだいたい演劇の人か、映像系の人だった。ぼくは、演劇にも映像にも詳しくないので、テキトーを言ってしまうかもしれない(ご容赦ください)。こうして、②と題した演劇論も、①は「装置の想像力」と題したものだった、①では、チェルフィッチュの新作『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』と、岡田利規の思想(?)、よた『にじ』について書いた。

 今回、こうしてまた劇評(?)を書くにあたり、2月は(ごく個人的な金欠のせいもあり)あまり演劇について触れずにいようと思って、とっくの前から予約していたマームとジプシー『equal』について、そして、北千住BUoYで開幕した(おめでたいです)「せのび」について書くことに決めた。
 ここでぼくは、ひじょうに身勝手に、「せのび」というワードから詩に引き付けようと、『そだつのをやめる』(青柳菜摘、thoasa)を本棚から抜き出してきた、「せのび」すること≒『そだつのをやめる』こと。すると、マームの『equal』もおなじく成長の話(を、振りかえる)だったので、ラッキーだった。

「equal」と印字された横長の紙を開くと、マームとジプシー主宰の藤田貴大からの言葉が。「失ったなにかや、だれかとは、もう再会できない。」マームがこれまで描いてきた喪失について、考える。「てんとてん」「かえりの合図」「まってた食卓」「しおふる」、今日マチ子との「COCOON」等々。「COCOON」は個人的に、うーん……という感じだったので省略。「equal」はいかにもマームらしい、リフレインをうまく使った演劇だったと思う。「さとこちゃーーーん、だいじょうぶーー?」と、冒頭付近で発話されるシーンは、「てんとてん」のリフレインだろうか、つまり「equal」は「てんとてん」、「かえりの合図」「まってた食卓」「しおふる」の再構築版、とでも言おうか、ぼくにはそう見えた。せりふをリフレインさせることで、反復による強度(北野映画でいえば振り子理論のような)を増していく。喪失の記憶を反復させることで、よりクリアな喪失を描こうとする。一度だけ発したせりふも、次の繰り返しでは、よりリアルなものとして発話される。
 過剰なまでにリフレインを使うことで、俳優の肉体には負荷がかかる。脳にも、身振り手振りの多さからも。それが、マーム的文法(ある種喃語とも言えそうな、おさなさ、つたなさをもった)なのであるとすれば、作・演出が同一であることを否定しない。宮崎駿が、宮崎吾郎の『ゲド戦記』を見て言ったあまりにも有名な「演出ってのは加害者ですよ」というのを思い出す。演出家の加害性。たとえばそれが、古典のテクストであり、それを現代の演出家が勝手に(!)現代風に調律をあわせ、流行のテーマを盛ったような作品をぼくは見たくない。『equal』の紙の中には、一枚の写真が挟まっている。馬の写真、農場で、放牧された馬。上演中、舞台の後ろに配置された巨大スクリーンに写し出される写真は、あるところでは装置の想像であり、観客の想像力を否定する。それがいいともわるいとも思わない。これまでの駄文を総括すれば、『equal』はメタ的に展開する、エモいものだった。

「七年七年/二年二年二年二年二年二年二年/そうして十四年たった/七年間土のなかにいると思うか、ちがう/あるものは二年で出てくる十四年のあいだ/土の時間を過ごすセミもいる」(『そだつのをやめる』から「セミ」)。だんだん目がおかしくなって、「年」という字がへんな記号のように、模様のように見えてくる。十四年たつと、セミが、死んでしまう、アスファルトに転がっている。セミは、どう鳴くか。ぼくは虫がきらいである。さまざまなセミ、一種類ではないセミの声の反響、「そだつのをやめる」ことを堂々と宣言するような。
 そだつことを否定したところから物語がはじまるのだと思う。いかに、そだたない状態でい続けるか。詩に限った話ではない。マームの喃語的ともいえる文体にも、そだつことの否定を見る。「ねー、、、にぎやかだわよねー、、、、、/そうねー、、、、/今日は、、、お父さんの日だもんねー、、、、/うわ、、、寿司、、、くっそ美味そう、、、、/それじゃあ、、、今日も一日、、、おつかれさまでした、、、、、」(『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』白水社、二〇一二年)。マームいちばんの功労者は誰か、ぼくは青柳いづみのことを考えずにはいられない。「しおふる」に、青柳さんは出ていた。青柳さんは、チェルフィッチュにも、よく出る。奇しくもおなじ苗字をもつふたりのアーティスト/アーチストについて言及することとなってしまったが、あまりそこに意味を求めない。青柳いづみの演技……なんとも形容しがたいのだが、この人が出てきた途端、その場は、一旦保留され、青柳による青柳のためのばとなることは、みなさんにも伝わると思いたい。マームのテクストは、きわめてノイジーな、読点の多用によってもたらされる視覚的な摩擦とは反するように、走ったり跳ねたりして、舞台上ではよどみなく発話される。ここで、宮崎駿の「演出ってのは加害者」だということを思い出す。文字によってもたらされる演劇機関、想像装置を、演出によって固定する。発話する位置を、つまり切り取られた場面を軽やかに、しなやかに、負荷のかかった状態で高速で移動しながら、何度も何度も再現する。バックパッカーと農場主二人の会話のシーンから、久しぶりに集まった同級生たちとのバーベキューへ。ふたつの場で起きた会話が、たがいに交差しあって、させて、展開する、その見事なまでの伏線のはりかたは、藤田の仕事、あるいは藤田自身の人生を埋めていくために作られた物語を、藤田でない人たちが演じる。そのちぐはぐさは、あるところでチェルフィッチュでもある(チェルフィッチュが、現代の日本の演劇に与えた影響は、あまりにも大きい……)。

「せのび」において、場所が特異だということを考えて書くとすれば、ままごとの傑作『わが星』をここで上演すればたのしいと思った。冒頭から、俳優たちはドタバタ走ったりする、多動の予感があって、いい。円状に交差したりする、運動だ。多動であること、膨大なセリフ量(矢内原美邦)が自然なかたちでノイズになるが、「せのび」ではドラマとして、声をあたえている。「新幹線」よりもはやい犬がいたら、どうか。喃語的なものを拒絶しながら、物語は進み、「大人になれば」(小沢健二も不倫をした)忘てしまうものが、メタファではない木に託されて、建物の構造上、破壊できない木をぼくらは嘆く。しりとりの途中、セミが登場する、偽物のセミだ、セミは怖いので。

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