苦しいのはもう死ぬほど味わったので、もう言わないと思っていたけど、苦しいしか言葉が浮かばなければ、もう何も言痛くない

理由がない。
深く掘り下げていけば何かあるのかもしれない。
過去がある。今がある。

初夏が迫っている。
私は初夏の鮮やかな色が好きであるが、あまりにも鮮烈に色が見えすぎることがしょっちゅうある。
双極性障害ではままあることだそうだ。

この時期は花も緑も強烈に脳に焼き付くような色をこれでもかとまとっている。

美しくい、やらそういうことは、誰に言われるずともよくわかっている。

子供の頃から絵を描くことも色を塗るのも好きだった。
義務感はなかった。
直感のように無意識にクレヨンや色鉛筆を選んで、色を使った。
その頃はそれが喜びだった。

このところ、色に関しての感覚が非常に敏感になっているのか、明るい場所を見るのがそれだけで神経を消耗するほど疲れることがある。
カーテンを開けるだけで疲れるほどになってしまった。
車に乗ることや電車に乗ることが苦しいのもそのせいがあるのかもしれない。

音楽も同じである。
私は自分で作詞作曲をする。
ステージにも立つことがある。
小学生の頃だったか、音楽の時間に曲想を習った。
つまりは曲を聴いて感じたことを自由に作文するのだが、何千文字も書いてしまった。

激しい想像力は、人間の精神力や体力を奪うのか。
発想が豊かと言えば聞こえがいいが、使わなくても良いエネルギーが無駄に消費されているのではないか。

さてそんな人間がどうやって、普通などと言う感覚を知れば良いのか。
薬を飲み続けた。
しかしこれは自業自得であるが、今後状態にまでなってしまった今、時々激しい発作が起こるようになった。

色が苦しめる。音が苦しめる。
そこから浮かぶのは、子供の頃に感じた想像力の塊ではなく、経験を伴った悲劇の主人公気取りの甘えた戯言であった。

苦しい。苦しい。
何よりも楽しく何よりも愛したことが、私を殺す。
こんな感覚から離れてしまいたくなれば、アイリッシュウイスキーと睡眠薬で気絶していた。

しかしもそれも、終わりが近い気がする。

こんなバカな言葉の羅列は一時的なものだ。少し時間が経ち、症状が軽減すれば、何かがまた私の中に生まれると信じるしかないではないか。

もう苦しいと感じすぎたし、苦しいと言い過ぎた。
誰にもできれば苦しいと言いたくない。そしたらもう何も言う事は無い。
精神科に行けば、苦しい理由を聞かれるが、いきなり体が硬直したり痙攣したりすることや、色や音が恐怖に感じる理由をどうやって説明したらいいのか今はわからない。

とにかくあまり、頻繁に苦しいと言いたくないのだ。見苦しいと思ってしまうのだ。
アルコール中毒になる前に、薬の副作用が収まれば良いのだが。

発作が出ていなければ、アルコールを摂取する事は1週間に1度位かもしれない。

死んではいけないのである。
どんなに死にたくても死んではいけない。少なくとも私の場合は。
仮死状態を作ることぐらいしかできない。

信じたい。もう少しだもうすぐだ、何か言える。赤と緑がぐちゃぐちゃに混ざって見えることもなくなる。音楽が激しい雑音になって脳みそを掻き回すこともなくなる。

また同じことが繰り返されるとしても、まだ何も言えなくなってしまっても、苦しい苦しいと言って何が変わる。
1人でつぶやいていれば良いのだ。
誰かを自分のゴミ箱にするな。
それができなければそれまでは、病であることを思い知れ。

飯を食え。きちんと薬を飲め。

私は私を失いたくは無い。
あなたにもあなたを失って欲しくは無い。

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