見出し画像

いっぽんの赤ワイン。

昨日来てくれたお客様が、今日の開店と同時にまた来てくれた。
市内からのお客様だったので、また会えた嬉しさよりも先に「どうしたんですか!?」という気持ちが瞬間的に勝ってそのまんま声に出てしまった。
なんせ片道1時間20分ほどかかる道である。
わたしだったら用事があってもあわよくば連れに運転してもらえないか、そのためには予定をどう調整するか、みたいな感じで工面する距離だ(わたしの例は極端すぎるかもしれないけど)

「昨日のレジが合わなかったんじゃないですか?」
そうお客様に言われて、急いで昨日の記憶をたどり寄せる。
いや、レジは確かにあっていた。
自慢じゃないが暇な店なので、その後の会計で相殺された~なんてミラクルもないはず。
「昨日帰ってレシートをみたら、4点中の1点が「0円」になってたんです~」とお客様が差し出してくれたレシートをみて、しまったぁ、と額をたたく。会計に反映されていない商品のシールまでしっかり貼り付けてご持参いただいており、ひたすらありがたい。
その金額を支払いに来てくださったのだ。なんとういう菩薩・・・!
こちらのミスなのに、わざわざこの距離を~と思うと、目の前で微笑むお客様に拝みたくなる気持ちである。
謝罪と感謝を伝えると、アロマも見たかったんです~とお買い物までしてくだった。
ああ、わたしもこういう爽やかなあたたかさをもつ人間でありたい・・・!

その後、一緒にお茶を飲みながら談笑している際に、共通の知り合いのお店(もともとそのお店の店主からうちを紹介されたそうで)で買ったグラスの話になった。
写真を見せてもらうと、たっぷりと波打つラインがうつくしい、なにか童話の中にでてくるようなグラス。
ワインがお好きとのことで、このグラスでワインを飲むのが楽しみなんです~と声を弾ませるお客様に相槌を打ちながら、心の中でヤッター!良い情報を得たぞ!とにっこりする。
お礼と謝罪の意味で何か帰りにお渡ししたいのだけど、あんまり大げさなものじゃかえって困らせてしまうよなぁ、消えものでなにかなかったかなぁ、と考えていたところだったのだ。
ちょうど店には連れが「お酒好きなお客さんにあげたらよいよ」と何本か持ってきてくれたグルジアワインの最後の一本があった。
帰りにワインを渡すとお客様はびっくりしながらも喜んでくれて、お互い笑顔で手を振る別れ際、なんともいえないあたたかな気持ちだった。

知らない土地に来てしまったなぁ、としんみりするときが無いわけではない。育った街をでて、両親を(心理的に)捨てて、結婚するわけでもなく、周りの「家族」たちを眺めながら、しかし自分はひとりで生きてくのだと粛々と心構えを積み重ねていく日々。
もちろん、ひとりで生きていけるわけなどない。
いろんな人と出会って、支えられて今があるしこれからもそう。
だけど、そもそもの「家族」や「両親」という単語に精神を削られるようなタイプの人間には、「人間の基本単位はひとりである」という言葉を噛み締める必要があると思っている。
人間の基本単位はひとりである、そう何度も何度も言い聞かせる。この人生を引き受けて死んでいくために、とにかくタフにならなければ。大真面目にそんなことばかりを考えて唇をかむ。
人間の基本単位がひとりだからこそ、ひとりとひとりのふれあいが温かく、心と身体が緩んでしまうような安らぎをくれるのかもしれない。
今日みたいなあたたかなやり取りのひとつひとつ、出会いのひとつひとつにいつも救われている。

依存症の病院を退院して、5年がたった。
今でもお酒を飲んでいないことが信じられないような気もするし、逆に今まであんなにお酒ばかり飲んでいたことが信じられないような気もする。
なんだかどちらも現実味がない。
とにかく一日一日を生きていこう、それだけでなんとかやってきたように思う。
先日、新聞の事件の欄に見知った名前が載った。半年に一度くらいのペースで同じようなことがある。普段はあんまり思い出さない名前たち。
大体「事件当時、容疑者は飲酒していた」という文章が最後につく記事。
一緒に飲酒していた知人を殴ってしまったり、お巡りさんを蹴ってしまったり、へべれけで車を運転してしまったり。

わたしは運よく最初の入院でとりあえず5年はお酒を飲まずに暮らすことができているけれど、やっぱり入院と退院を繰りかえす人が多い。
入院と退院を繰り返すならまだ良いほうなんじゃないかな、とも思う。5年でもう何人と死んでしまった。
入退院を繰り返すことも、いつの間にか死んでしまうことも、「やっぱりアル中は」と、健常な皆さまが呆れて呟く声に別に異論はないんだけど
わたしはいつも底知れぬ切なさを覚えてしまう。
新聞の記事もそう。そのたびに、一緒に入院していたときの、酒を飲んでいない面々の表情や人生を語る姿を思い出すのだ。そして切なくて、切なくて、心臓をぐっとつかまれたような気持になる。
わたしもまた、今は飲んでいないだけなのだ。
本当はあの時みたいにこの世の底まで飲んで飲んで飲んで、酔いつぶれてそのまんまみっともなく死んでいきたい気持ちと同居している。
だけど同時に、離脱症状がやっと治まったあの日、自分の脳、目、耳で、ものを考えたり見たり聞けたりしたときの沸き上がるような感動も覚えている。
そうだ、これが自分の身体だと思い出せたあの日のこと。5年も前だなんて信じられないくらいにはっきりと覚えている。
元来感激屋だったのが良かったのかもしれないな、なんて思ったりもする。

すっかり長くなってしまった。良い出来事があると、ついついいろんなことに思いを馳せちゃうなぁ・・・
今日、本当の意味でお酒を楽しんでくれる人に、おいしいワインを渡せたことを小さく誇りに思っている。
(もちろんそんな考え方、この上なくエゴだということも承知している。)
お客様にはご足労をかけてしまったけれど、あたたかくて、力のみなぎるような時間を過ごさせてもらった。
いろいろ思い悩むこともあるけれど、やっぱりいろいろな人に出会える商いをしていてよかったなぁ、ありがたいなぁと改めて思ったのだ。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?