いつもひっかかってる気持ち。

大きく息を吸うとちょっとだけ楽になる気がするのだけれど、吸ってばかりだとなんだかかえって苦しくなってくる。
それで、今度は大きく息を吐いてみる。ふぅー、とすぅーの間みたいな小さな音をたてて。
やっぱりちょっとだけ楽になる。
それをなんどか繰り返して、ひと心地ついたような気がしたあとにふと
いちいちこんなことしないと人生なんてやってらんねーな、という乱暴な気分になって、結局息を吸っても吐いてもずっと引っ掛かりがとれていないってことに気が付く。やってらんねーな。

ちいさな癇癪を積み重ねているみたいな日々。
初老も目前だというのに、自分の中の五歳児がずいぶん幅を利かせているという事実にくらくらしてしまっている。
具体的になにが不満だ、とか、なにに憤っている、みたいなことを箇条書きにしてみれば
あんまりにも幼稚すぎるこちらの事情が連なってしまうのがわかっているので
あえて書き出したりはしない。
40を間近に控えた大人が、自分が大切にされていないと感じる、自分が蔑ろにれているように感じる、そんな理由で毎日どころか一瞬一瞬傷つき続けているなんて、やはりどこか恥ずかしいことだと思っているのだ。
でも、それでもやっぱり一瞬一瞬傷ついている。
周りの人たちの安定した自己肯定感が吐き気がするほどうらやましい。
わたしの自己肯定感の土台ときたら、まるでサラサラの浜辺の砂で作ったみたいな儚い出来だ。
一生懸命かためて、かためて、それらしい土台がやっとできたところで波にさらわれてしまう儚さ。
連れの自己肯定感の土台の頑丈さをみていると、本当におんなじ人類かよ、という気持ちになってしまって地団太を踏みたくなる。

みんなそれぞれに悩みがある、とか、お前だけが大変なわけじゃない、みたいなことも死ぬほど聞かされてきた。
実際そうなんだろうけど、こっちだって別に自分ばっかり辛いんだもん自慢をしたいわけじゃない。わたしの相談の仕方が悪いのか、それとも相談自体が悪なのか?みんなどうやって折り合いをつけているんだ?
結局そういう葛藤を繰り返すたびに、どんどん蓋をしていくようになる。結局なにが辛いんだか、なにが嫌なんだか、なんでこんなにも身体が重くなってしまうのかわからなくなった。残ったのはいつもぼんやりとした頭と、のっそり重い身体、反射で出る笑顔。たまに狂ったように出る涙。

同じことの繰り返しとわかっていながら、また大きく息を吸って、そして吐いてみる。
だけど、それではこの「傷ついている」と座り込んでしまった自分のことは、いったいどうしたらよいのだろう。
だれかに慰めてほしい、だれかにいたわってほしい、だれかにねぎらってほしい。
そんな甘えん坊のみっともない自分のことは、いったいどうしたらよいのだろう。

ちまたに出回る「自分で自分を抱きしめてあげて」みたいなフレーズに、心を和ませた瞬間もあったし
なんかの自己啓発本に倣って、必死で自分の中の5歳児にもっともらしい言葉を語り続けたりもした。
それがきくときもある、でもきかないときはもっとある。
息を吸ったり吐いたりするのとおんなじだ。
結局いつだって、自分以外にやさしくしてもらいたいのだ。もっといえば、本当はあの両親にもっと子供らしく扱ってほしかったのだ。もちろんもう無理な話。
あの人たちも、たぶんずっと子供らしく扱ってもらいたいと思い続けて大人になってしまったクチなので、残念ながらはなから望めなかったのだ。

とりあえずがむしゃらに生きてきた20代が過ぎて、30代はずいぶんぼんやりしている気がする。
がむしゃらに生きてきたおかげで、社会活動は反射でなんとかできるようになってしまった。
心が空っぽでも、体がどんより重くても、一日一日ならなんとかなってしまう。
だけどたまにぞっとしてしまう。こんな毎日がずっと続くのか?
眠るときに、明日がこなけりゃ万々歳だな、そう思う。
布団の中でみる、つじつまの合わない珍妙で変にリアルな夢の世界にずっといれたら良いのにな。


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