見出し画像

第三話「詩」

    小学生の頃、図書室で(辞書を除き)一番分厚い本を手に取りました。本棚の上のほうにあって、開くと小さな文字がいっぱい。ふりがなもない。その本の名前は「谷川俊太郎詩集 続」でした。私は夢中で頁をめくり、特別好きな「今」と「雪山讃歌」の頁にスピンを挟みました。きっと私以外に読む人がいなかったのでしょう、それはいつ行っても同じ場所にあり、スピンが移動したこともありません。あの時すでに、私は詩人でした。

    詩人という言葉のもつ意味が単に「詩を書く人」だけでないことはご存知でしょうか。詩人とは、「詩を感じる人」のことです。詩は日常の至るところに現れます。言葉はもちろん、木漏れ日や、北風や、珈琲の湯気に詩を感じられる人もまた、詩人と呼ばれます。尤も、この意味を知っているのは詩人だけですがね。

    詩とは何か、という問いは詩人にとってとても難しいものです。しかし私はこう思っています。「実は『エモ』の中にも詩があるのではないか」と。あらゆるものが「エモい」と言われ、本物の美しさまでもが途端に安っぽく感じられてしまう時代。元から安っぽかったものはさておき、危うく「エモ」に価値を下げられそうになっている多くのものは本来「詩」と呼ばれるべきなのではないでしょうか。悲しいかなそれを知っているのは前述した通り詩人だけなので、殆どの人は思考停止で「エモい」と口にするのです。でももし思考停止じゃなく、叙情的に感じられて上手く表現したいのに出来ないのだとしたら、そういうものこそ詩と呼ぶべきです。「エモいね」じゃなく「詩があるね」。「エモいこと言うね」じゃなく「詩人だね」と、そんなふうに言葉を選べれば、「エモ」による侵略を食い止めることも出来ると思います。

    画像は最近の詩的時間です。我が家の猫ヴェールは音楽とバルミューダの灯りが大好きみたいです。それではまた次回お会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?