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「弟妹とまたお茶をいっしょに飲みたい・・・」が断捨離の原動力

荒れはてていた室内

三年前、私は母の介護に取り組むことになりました。当時の部屋は、現在とは大きく異なり、荒れ果てた状態でした。床には不用品があふれ、足の踏み場もありませんでした。食事はダイニングテーブルではなく、床に座ったり、当時愛用していた電話台の付属の椅子に腰掛けて食べていました。床にはご飯粒が干からびて散らばっていました。ダイニングテーブルには趣味の大正琴が置かれており、「ここは明るくて楽譜がよく見えるから」と言っていました。しかし、ダイニングテーブルの照明は埃だらけで壊れかけており、天井から斜めにぶら下がっているというひどい状態でした。

危機感を感じた

このままでは、ゴミにつまづいて転倒してしまい、骨折して入院することになる…人間らしい暮らしを取り戻さなければ、心まで荒んでしまう…と危機感を感じました。

断捨離を提案

私は母に「このままだと施設で暮らさないといけなくなる」と伝えましたが、「イヤじゃ」とはっきりと断言されました。「ここがええ」とはっきり言う母の強い意志を尊重し、断捨離を提案しました。当時母は87歳でしたが、「やる!!」と答えてくれました。

夢は妹たちとのお茶会

混沌とした室内には母は人を呼び入れることができなくなり、叔母たちもしばらくは立ち入らない状態が続いていたそうです。「断捨離できてお家が綺麗になったら何したい?」と聞いたら、「また妹たちを呼んでお茶でも飲みたいなぁ~」と答えました。その答えを聞いた私は、胸がギュッと縮まって切ない気持ちになりました。

母と一緒に目標に向かって前進

長年の確執から、私も自宅に踏み入ることがないまま数年が経過していました。何とかしたいという思いが込み上げ、「たいへんだけど大丈夫?」ともう一度確認してみました。「ええ、やる」とキッパリ。「大丈夫?」「ええ、やる」と・・・。そこで断捨離を決行しました。

市の運び出しサービスを利用して週に10個ずつ粗大ゴミを回収し、少しずつ家具をコンパクトなサイズのものに替えていきました。動線を確保して、移動をスムーズにする目的です。カーテンも光を通すものに替えました。朝日が入り、自然に生活のリズムが整えられることをねらいました。玄関、トイレ、階段には手すりをつけ、トイレは段差をなくした洋式に変えました。

あまりの大改造に母も私も疲労困憊し、くじけそうになることも度々ありました。そんなとき、「お母さん、死んでから棺桶に入って花を飾られてもつまらないから、綺麗なお部屋にして花を飾れるようにしようね」と声をかけていました。この言葉は、私たちに夢にフォーカスする力を与え、目標に向かって一歩一歩前進することができる励みとなりました。


夏から始めた断捨離と住環境整備は秋には終わりました。小規模多機能のスタッフの方々にサポートしていただいたり、有料のサービスを駆使しながらなんとかやりとげることができました。長年疎遠だった私たち母娘は、この住環境整備をやりとげて、「最期まで安心して暮らせる住まい」の実現に向けて手を取り合いながら一歩前進することができました。

念願の叔母たちとのお茶会

落ち着いた暮らしを手にいれることができた母は、念願の叔母たちとのお茶会も開催でき、叔母たちとおしゃべりを楽しめる幸せを手に入れることができました。ロボホンという家族も増え、よりいっそう賑やかなリビングとなりました。

断捨離でスッキリしたリビングでのロボホンと母(の手)

人生あきらめない

ふりかえってみますと、私が母に預けていた猫が天国に行ったことが母の心の大きな打撃となっていたように感じています。家族同然の猫の存在がなくなり、自暴自棄になっていったのかもしれません。何はともあれ、今はこうして暮らしを立て直すことができました。人生あきらめない、いくらでも挽回できる・・・母を見ていて感じています。

最期までお家で暮らせるためには、排泄の自立はとても大切です。母が取り組んだ「排泄コントロール対策」についてまとめました。リハビリパンツを使用していた母が布パンツを復活させることができるまでどんなことをしたのか・・・良かったらごらんください。

⇧ 自己紹介と我が家の介護のことをまとめました。最近アップしたその他のnoteの記事もごらんいだけます。

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