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水を雑に扱うと、どうなる?...東京近郊の例

ここ数回のnoteで、水と空気がうまく流れるような環境が生物にとって必要で、人の文化は水とうまく付き合うように発達しているのではないか、と考えてきました。ところが、水とうまく付き合う知恵は、現代社会の中で失われるつつあるのかもしれません。その例として、東京近郊の川で僕が見たことをまとめておきたいと思います。

とある川の源流に向かって歩いていた時のこと、釣り堀と駐車場がありました。東京から来た車が上流域の川底にたくさん止まって、多くの人が人工的に区切られた川のイケスで釣りを楽しんでいました。

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爽やかに晴れた空に綺麗な空気の中で、釣りをするのは確かに楽しそうです。それが何が問題なのか?人が自然に触れることは大事なのだから、むしろ良いことではないのか?

奥山の川底を造成してしまう問題点

すぐ隣の支流を遡っていくと、その答えがわかります。そこには、釣り堀の跡(造成された駐車上の跡)がありました。おそらく台風などによって崩れてしまって放棄されたものだと思われます。

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問題だと思ったのは、堆積された石が川によって流され、それが川を埋めているというところです。よくみていると、川の水が一部完全に地中に潜っている部分が何箇所かありました。下の写真で、左下方向が川下になっていてここで川が途切れています。

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その先では以下の写真にあるように、石が真っ白・黄色になっていて有機物の腐敗した匂いが辺り一面に充満していました。硫化水素の匂いも含めて、とても臭くてとても長居はできませんでした。

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何がおこっているのか?

これをみて僕は「水の集中する川底にたくさんの砂利や土を持ってきたことによって、水の流れが滞り、水中の酸素が失われ有機物が腐敗した」のではないかと考えました。ちゃんとした調査をしていないのでこの仮説が正しいとはかぎりませんが、この現状を見てとても悲しくなりました。有機物の含んだ水が動かず滞ると、以下の滋賀県のサイトにもあるように、酸素が消費され嫌気環境になることによって有毒な硫化水素が発生することがあります。そのような環境で生息できる生物は、細菌類など選ばれたエリートだけです。

もしこの仮説が正しくなかったとしても、水の集まる奥山の谷部に砂や砂利をたくさん放り込むと言うことに疑問を感じます。健全な川が保たれるには、目に見えている流れだけでなく、周囲の山から流れてくる地下水、湧き出してくる湧水全てが滞ることなく流れることが重要です。地下の水の流れを考慮しないやり方では、健全な環境を守ることはできないでしょう。水質は、人の生活の基盤になる物なのに、その意識が失われている例ではないでしょうか。

今後、起こるとされる首都直下型地震でも、その後の深刻な水の供給不足が懸念されています。水を備蓄する、ほかの場所から供給するライフラインを確保する、ということも大事ですが、関東に歴史を通して潤沢な水を届けてくれた足元の水を大切に扱う、ということは、より根本的な地震への対応策になるかもしれません。

一つの支流の水が劣化したからといってすぐに自分たちの生活が影響をうけるわけではありません。生態系はタフなのです。しかし、それを積み上げ続けていくとどうなるか、想像することが大事ではないでしょうか。

まとめ

断っておきたいのですが、この釣り堀を経営している会社や利用者が悪者だと言いたいわけではありません!人が飲む川の源流のその川底に人工物を大量に設置してもいいのだろうか?それが水の流れを堰き止めてしまう可能性に気を払うことはされたのでしょうか。自然を楽しむのは大事ですが、何か根本的なところがずれているではないかと思います。川釣りをするならこれほど上流でする必要はないのではないか。また、より下流に車を止め、長靴を履いて歩いて川を登る、という選択はできなかったのでしょうか。人工的にイケスをつくるのではなく、一定のルールを守りながら、自然の魚を狙う方が楽しいのではないか。

水と空気の流れを大事にする、という生活の基本的な考え方が失われているのかなあと思いました。生物の世界は広くて、いろんな生物が生きられる環境は、人間の楽しみを拡大しすぎては成り立たないということがわかる例なのかもしれません。全ての人が自然を理解することが大事だと思う例でした。自然を見て、それを語る言葉を増やしていきたいです。失われつつある現代だからこそ、知恵をつけることは面白い、と僕は思います。

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