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生物多様性って何?(その2)

「生物多様性を守る」とは、ある生物種や生態系の数を増やす、もしくは数を取り戻すことではなく、全体(その場所、流域、地域全体など)の健全な機能を守り育てることではないか。目の前に見える生物種や群落を取り出して、その数が増えた減ったに反応する。そうではなくて、その生態系が成り立っている環境全体(人の文化を含む)を良くしなくてはならない。この視点は、実社会で忘れられることが多い。その例として、前回外来種問題について考えました。

「生物多様性」という言葉は、私たちが普段持っている考えを改めよ!と言っている、優しいけども厳しい、スパルタコーチのようなものに僕には見えます。彼・彼女が、私たちの、どのような姿勢を変えなくてはならないと言っているのか?

「自然を破壊する人が悪い」という考え


環境問題というと、悪い会社や国が自然を破壊する、そしてそれを食い止めようとする人々、という構造を想像されるかもしれません。つまり、自然を破壊する会社や国の人々の頭がおかしいのであって、彼らが座禅・瞑想して考えを改めよ!と思われるかもしれません。

ナンセンスっ!(生物多様性コーチ)

コーチはそんなに甘くはありません。生物多様性は、林業地や農業地、里山、そして都市も自然の一部であると宣言しています。都市に住んでいるとわからなくなるかもしれませんが、環境から切り離されて生きている人はいない。環境を大事にする、とは、自然食品を買う、とか菜食主義者になる、とかだけではなく、全ての人が少しづつ手を動かし環境に働きかけることが必要です。例えば、現在食べた食品のあまりや排泄物は、燃やされるか薬品を投与した後で海に流されます。しかし食品というのは生産された土地の栄養を吸収しています。養分が搾取される一方であれば、近い将来そこの生物(作物含む)の生活は立ち行かなくなるでしょう。食べたものは、土地に戻さなくてはならない。コンポストを作ってそれを土地に戻すには、みんなが少しづつ労力を払うことが必要です(コンポストについては以下を参照)。

環境をよくするには、あらゆる場所にすむ人が、少しづつ行動を変える必要がある。人の行動も自然の機能。全体をよくしなくてはならない!とはそういうことだ。火星に住んでいるのでもない限り、コーチの指導と無関係な人間はこの世にいない...

場所と場所のつながりを忘れること

生物多様性とは、僕の考えでは、たくさんの生物種が生息する環境全体です。しかし、その状態が保たれるために必要なことは、頻繁に忘れ去られがちです。

町の一角にある神社裏の森にビルを建てたいが、木を切ると二酸化炭素が出る。そこは切り払って、その代わり同じ量の炭素を固定できるよう別の場所で森を育成しよう!(生物多様性3級の人)
ナンセンスっっ!!(生物多様性コーチ)

ある場所と別の場所の森が交換可能である、という視点には、場所と場所が繋がって生態系が成り立っている、という考えがありません。森は周囲の環境と相互作用していて違いに依存関係にあることがあります。ある場所の森は、その生態系全体を維持するために必要な精錬な水を供給しているかもしれない。それを破壊することは、たとえ一部でも全体のシステムの劣化につながりうることを、忘れてはならい、とコーチは言っています。

だが悲しいかな。町の一角にある巨木を安易に切ってしまう、水系を分断する巨大なダムや防波堤を作る、川をコンクリートで3面ばりにする、山の頂上に風力発電所やソーラーパネルを設置する、など場所と場所のつながりを断ち切ることが頻繁に行われています。

「〇〇のためには犠牲もやむなし」という考え

トレードオフという言葉を聞いたことはあるでしょうか。あるものを大事にするためには、別のものを犠牲にしなくてはならないという考え。現代社会では、あらゆる場所で幅をきかせている経済学的な原理です。

地球温暖化を守るため、自然エネルギーを導入しなくてはならない。そのために、大量の森を切り払うけれども、ここに風力発電所を作る必要がある。
(生物多様性2級の人)
ナンセンスっっっ!!!(生物多様性コーチ)

「何かを守るために何かを犠牲にしなくてはならまい」という思い込みを捨てよとコーチは教えます。生物多様性を保全するとは、全体を少しづつよくすることです。トレードオフが必然になるのは、大抵すぐに大きな成果を求める、という時です。短絡的な方法を取ろうとすると選択肢が絞られ、AかBかという思考になってしまいます。そうではなくて、少しづつ森を育てる、全員の生活を変える、という地道さに環境を良くする秘訣があると僕は思います(急激な対処が必要な場合ももちろんあります)。虫歯を取り除く技術ではなくて、そうならない生活様式が大事だ、という考えが似ているかもしれません。近年の地球温暖化に対して早急な対応は必要ですが、それは大規模な構造物を作ることではない、ということは忘れないでいたいものです。

環境指標の使い方

環境全体を理解することはとても難しい。しかし、他方でそんな環境の中で生活をすることも必要です。そこで、人間は、自分たちの活動が環境に及ぼす影響を”科学的に”評価するため「環境を表す指標」を開発しました。例えば水質であれば水中の硝酸窒素濃度など。「なんか気持ちいい、悪い」では、”科学的”ではないのです。しかし、これが次の問題を引き起こします。

ダムを作った。地元の人間は、環境が劣化していると言っている。そこで、環境指標を調べたところ、影響は明らかにならなかった。地元の人が間違っているのだろう。(生物多様性1級の人)
ナンセンスっっっっ!!!!(生物多様性コーチ)

上のような意見は何がコーチの機嫌を損ねるのでしょうか?科学的に立証された環境指標がどのようなものであるか、ということをすっかり忘れてしまっているところに問題があります。環境指標とは、あくまで環境のごく一部分を評価するものに過ぎません。環境全体への影響は、少数の要因を見れば明確に浮き彫りになるというものではない。

そのような問題に対処するためには、環境指標にのみ頼るのはなく、人の直感も重視することが不可欠です。また、そのためには、人は環境と常時ふれあい、その状態を責任を持って知ることができなくてはならない、という教えでもあります。

◯◯は良い・悪いという考え

最後にコーチは思い込みを捨て創造的たれ!と教えます。例えばこんな状態、、

この森を抜けて向こうに至る道をつけたい。そうしたら、通行は便利になる。でも森を破壊することはできない。。(生物多様性初段の人)
ナンセンスっっっっっ!!!!!(生物多様性コーチ)

道を作ることは、森を破壊する。確かに一面それは正しいかもしれません。しかし、コーチが教えるのは、やり方はあるという考えを持つことです。人が何かを作る=悪い、という考えはやめましょう。一人暮らしを始めたばかりの大学生の作るペペロンチーノは、サンジ(料理人)の作るペペロンチーノとは似ても似つかぬものです。それと同じで、同じように道をつけるにも環境と調和したやり方はあるものです。熊野古道など昔から使われながら、みんなが美しいと思える環境を作るやり方は存在します。グリーンインフラという最近の言葉もこの点を意識したものだと僕は思います。

逆にグリーンインフラは全て良い、という思い込みもすてなくてはならない。全体がよくなっているかどうか、ということを常に考えることが必要。じゃあ、どうしたら全体がよくなるのか?と思うかもしれません。これは簡単に答えることはできないが、もしかしたら、自然とうまく付き合ってきた、伝統的なやり方にヒントがあるかもしれません(今の文明を捨てて昔に帰れという意味ではないです)。謙虚に色んな視点があることを学ぶことが大事だと、僕は思います。

まとめ

生物多様性とは、数値でも、一部の貴重な種のことを言うのでもない。生態系を成り立たせている全体のことであり、「その全体を良くしなくては、本当に良い環境は作れない」という先人の経験則の現れではないでしょうか。言うは易し、です。人はだれでも自分の目の前の問題に囚われる傾向があって、それから完璧に逃れられる人はいないのでないでしょうか。

「生物多様性」は、良い環境を作るため、全ての人に広い視野を要求する、スパルタコーチです。間違いを犯してしまったら、僕は膝をついて「完璧でいるのは無理です」と涙ながら告白します。そうしたら、コーチならば、そっと僕の肩に手を置き、「個人で完璧である必要はない」と言うでしょう。自分が近視眼的になってしまった時に、別の誰かが気づいて「それはおかしくない?」と言う。そして、その意見を攻撃と受け取らずに受け入れる。それが地球規模で当たり前になったら、21世紀に人間の文明が一つ進んだ、と言ってもよいのかもしれませんね。

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