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世界一周したら病んできた話

これまではやりたいことをやればやるほどやりたいことが増えていたのに、最近やりたいことをやればやるほどやりたいことがなくなってきています。

なんだか日々にハリがありません。
もっと活力漲って、未来にワクワクして、今にハラハラして生きていたいのに、最近は何も持っていない20代前半の子とかに会うと、眩しくて、羨ましくなります。

僕は現在30歳なのですが、学生の頃からやりたいことリストというものを持っていました。
やりたいことリストには「総理大臣とサシのみする」というものから「美味しいケーキを食べる」「トレランの大会に出る」みたいなものまで難易度とか関係なくとにかく自分がやりたい!と思うものを書き出していました。

ひとつ、またひとつとリストを潰していく度に自分の人生が前進している感覚を得られたし、充実感に満たされました。

そしてやりたいことをやればやるほどやりたいことが増えました。
「トレランの大会に出る」なんて簡単です。大会探して申し込めば叶います。

そんな感じでやりたいことを叶えてみると、その体験を通じていろんな人に会い、いろんな情報を得られます。そうすると「エベレストでマラソン大会あるのか!出たいな!」とか「山の中を自転車で爆走するスポーツがあるのか!やってみたい!」とどんどんやりたいことが増えていきました。

やりたいことをやるためには、もっと自分を鍛えよう!もっとお金を稼ごう!とやりたいことをすればするほど、自分の世界が広がっていき、自分の能力も上げる必要性が出てきて日常が非常に刺激的でした。

ところが最近、やりたいことをやればやるほどやりたいことがなくなっていく(まだ叶えていないやりたかったことも「まぁいいかな」となってきているし、以前のようにやりたいことが増えなくなってきた)という人生初の状態に陥りました。これは困りました。

人生やりたいことがありすぎて「やりたいことが分からない」という人の気持ちが全く理解できなかったのですが、今初めてその気持ちを感じられています。

自分なりに「コンナノハジメテ」な状態なのでびっくりしたんですが

「やりたいこと」というのは【できること×知識×視座】あたりの構成要素の組み合わせで生まれるんじゃないかなと考えました。

①できること
小学生〜社会人までは年齢を重ねるごとにできることが増えていきます。身体ができあがってくるはもちろんですし、門限がなくなる、年齢制限があるものにアクセスできるようになる、お酒を飲めるようになる、使えるお金が増えるなどなど。とにかく「できること」が本人の努力などはあまり関係なく、自然と増えていきます。初体験が積み重なります。社会人になってからも一通りできることは増え続けます。知識が増えて、スキルが身につき、アクセスできる人の質や数も上がり、使えるお金も(自分のお金、会社のお金)増えます。
できることが増えると、「やれそう」という自己効力感も高まります。

例えば、ブラジルに行ったときにビーチのあちらこちらでセパタクロー(手を使ってはいけないサッカールールのバレーボール)をやっていたのですが、「すげーうめー!」とぼーっと見ていました。普通のサッカーやバレーボールだったら「楽しそう!僕もやりたい!」となるんですが、僕はサッカーのリフティングが全然できません。なのでセパタクローをやっても絶対面白くないと想像できてしまって「やりたい」が生まれないんです。

「できる」の土台がないと「やりたい」は生まれない。

ただし、「できること」というのは0歳〜30歳くらいまで右肩上がりで増え続けるのに30歳くらいから同じペースで増えません。1の労力でできることが1増えていたゲームが30の労力をかけてできることがやっと1増えるみたいなゲームになってきます。そしてむしろ、老い始めてできなくなることすら出てきます。

だからやりたいことが生まれづらくなっている説

②知識
人は知っていることしか「やりたい」と思えません。いや、至極当たり前の話なんですが笑
知らないことを「やりたい」と思えるはずがありません。

知識には幅と深さというものがあるとすると、大学までは良くも悪くも知識の幅が強要されます。
全然興味ないのに植物の成り立ちとか勉強したり、縁もゆかりもないオスマン帝国がどうのこうのを学びます。僕なんて音痴なので音楽とか嫌だったんですがショパンとか聴かされました。

ただそうすると不思議なことに興味が芽生え始めたりします。外部からの強制力が興味の幅を広げてくれます。

社会人になると仕事と趣味はそう簡単にコロコロ変わるものではありませんし、義務教育や大学で行われた強制的に学ばされることがなくなります。

ということで、社会人になると知識の深さ(すでに自分が元々興味のあるものや、仕事として関わっている領域)ばかりが進み、知識の幅が増えることはほとんどありません。

僕の場合、自分が今の段階で全然興味のない日本の伝統芸能だとかお菓子作りだとか鉄道とか勉強しようとはとてもじゃないけど思えません。(ただし、きっと嫌々でも勉強してみたら興味が芽生えてくるはず)

大学の時「おもんないなー」と初め思っていた政治思想や哲学が今では学ぶことが趣味になっているんですが、これも大学で単位を取らねばならないという自分の意思ではない強制力から知識がついたことが要因です。

全く興味のないものでも嫌々勉強することが確かに社会人になってなくなったなと気づきました。

③視座
旅人と話すことは世界が広がる機会で僕にとって、
「え!そんな場所があるの!」
「え、そんな生活してる人がいるの!?」
「え、そんな食べ物があるの!?」
と好奇心が最高に刺激されていたのですが、最近訪問国も85カ国を超えてきて、だいたいの世界(とはいえ全世界の半分弱)の文化や自然を見てきて驚きがなくなってきました。
世界に対しての解像度が高くなると驚くハードルが上がります。

また、旅人と話したりノマド生活をしている人と話してもあんまり面白くなくなってきたのですが、それはきっと僕も含めて視座が低いからなんじゃないかと思いました。

自由になりたい
もっとお金を稼ぎたい
あの国に行きたい
あの体験をしたい

こういうのは個人としての欲望で、結局「自分をもっと満たしたい」というものです。

自分1人を満たすことは人生において唯一といっていいほど重要なテーマです。

ところが個人的には自分を満たすことそのものは割と簡単で、難易度が高いのは自分を満たし続けることです。

「日本を変えたい」
「日本中のママを救いたい」
「次世代に価値を残したい」
と本気で考えてチャレンジしている人が僕は知り合いに何人かいるのですが、こういう人はやりたいことだらけです

やりたいことが全然すぐに叶わないからです。

僕の場合やりたいことはお金と時間さえあれば割とすぐ叶うものが多くて、
そしてお金と時間さえあれば叶うものを叶え続けると、「あれ、このやりたいことというのも多分叶えられるし、叶えたらこんな感じだろうな」と叶えるまでの道筋や叶えた時の感覚なんかも想像できるようになってしまいました。

そうすると、「やりたい!」と思っていたことが「まぁやりたいことだよなぁ」と熱量下がってきて、そんなにやりたいことではなくなることも出てきました。

ふと算数ドリルをやっていた頃を思い出しました。
掛け算をやったり2桁×2桁のひっ算ドリルをやり始めた時って最初は解くことそのものが楽しかったのですが、一定量をやると、3桁×3桁みたいに難易度が上がっても、計算をすることそのもののルールは何も変わらないのでつまらなくなってきます。最初は挑戦者として果敢にドリルに挑んでいたものの、いつしかそれは作業になります。

僕は自分を満たすこと、自分の目の前の人に貢献することに最大の関心があるのですが、顔の見えない人に対して〜したい!みたいな欲がありません。そういう意味では僕の視座は超絶低いです。
だから今まで社会を変えたい!という視座の高い人のサポートをすることで仕事をしてきたのですが、現在世界放浪していて、その仕事も減らしたらだんだん生きがいみたいなものが減ってきました。

視座が上がったらやりたいこと(かつ簡単には叶えられないこと)が増えるイメージはつくんですが、なにせ視座の上げ方がわかりません。

僕は常にチャレンジャーでいたいのに、(観客席ではなく常にマウンドに上がっていたいのに)チャレンジャー感がだんだんなくなってくるみたいな。かといって内発的な「やりたい!!」が出てこないから困ったもんです。

とまぁここまで整理してみたら、
・できることをとにかく増やす
・知識をとにかく増やす
・視座を上げる
とこの3つが解決策な気がするんだよなと奥さんに話したら

「やりたいことがないといけないっていうその前提が意味わかんない」と一刀両断されました。

ただ、刺激中毒になっている僕は、どうしてもやりたいことが欲しくて、そのためには上記の3つのジャンルで次のステージにいく必要があって、数ヶ月で突破できる関門ではない気がしているので
これはどうやら3年くらいしばらく人生の修行期間かなーと思っています。

修行と捉えて3年くらいはいっちょ鍛錬するかーとなっているのですが、「やりたいことをやればやるほどやりたいことがなくなってくる」というこの状況を突破する方法ある方教えてください(切実です)


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