読々、毒々

書こうとは思っていたのですがこんな季節になってしまいました。
文章に圧倒されたかったけど、その凄みに気圧されるのが怖くて逃げてた気がする。
自分の書く文章の拙さに絶望したくなくて逃げてたけど、どっかでずっと身震いするようなお話が読みたかった。本屋に行っても本の圧に押しつぶされそうになって、涙が止まらなくなり、何も選べずに帰る日々が続きました。
あとは単純に大学の期末レポートが忙しかった。

あと、常にあたしはネガティブな感情に振り回されていたんだなー…と思います。ネガティブなパワーって爆発力が凄い。私の場合は、自分の感情の中のぐちゃぐちゃしたところを文字に起こして可視化することで浄化できてたし、悩んでれば悩んでるほど言葉が次から次へと紡げた。今、周りの皆様のおかげで割と穏便に生活できていて(ありがとうございます…。)、現実逃避が今の私にはあまり必要じゃなくなり、小説を読むことや文章を書くことに対する爆発の仕方がわからなくなっていました。
あとシンプルにポジティブなことを文章にするの苦手っぽいです。褒め言葉とか「素敵〜」と「斬新〜」ぐらいしか思いつかない。最悪ですけど。

そんなこんなで以前よりも本から離れてしまっていました。それでもちょこちょこ読んでたんだけど、読もうとして読む文章って本当に意味なくて、文字が脳まで到達せず、耳から目から鼻からするする溶けていく。この期間に消化不良にしてしまった本がいくつもあります。あとはなぜが、どこかで自分には合わないとわかっているのに背伸びして手を伸ばしてしまった本が数冊。ベッド横のテーブルに転がっていたり本棚で他の本の下敷きになってたりします。

で、なぜいまnoteを書けているのか、いわゆる「活字スランプ」から脱出できている(正確にいうとできそう)なのかと言いますと、素直に圧倒される文章に出会ったからです。
首あたりに刺された毒が全体に回るように、じわじわと指先まで広がって、今ピーク。一番辛い時です。

私のnoteでも2回ぐらい読書感想文させてもらった中山可穂さんの作品です。
『白い薔薇の淵まで』です。
活字がダメで、消化不良の作品を何冊も出してきたのに1行目から引き込まれ、2時間で読み終わってしまった。悔しい。作家さんごとハマるのが一番厄介だったりします。新刊はもちろん、絶版になった作品も死んだ恋人の残り香を探すように古本屋やらメルカリやらを徘徊する……………
香りに誘われ、新宿の紀伊國屋で2冊、近所にあるあんまり信用してなかった本屋で1冊、メルカリで1冊、古本市で1冊。なかなか集まってきました。

主人公は塁とクーチ。舞台は日本と東南アジア。テーマは愛の快楽と破滅。ヒントは猫と古巻氏。

私は今のところ男性経験しかなくて、女性と恋仲になった経験はないんですが、一度女性アイドルに恋愛感情に近いものを抱いたことがあって。頑張る彼女が好きだったし、彼女が好きなものまで愛したかった。結局円満とは言い切れない形でアイドルに幕を閉じたのですが、それすらも彼女が選んだエンドロールならば、どんな不評からも守ってみせると思いました。
心の体調がうまく回復しなかったことが原因で卒業したのですが、どこかのそのアイドルファンが「もうアイドルじゃなくなったんだからいい彼氏でも見つけることが一番手っ取り早い回復方法かもね(ニュアンス)」みたいなことを言っていて、もうとんでもなく悔しかったことを覚えています。あー、だよね。男じゃなきゃダメかー。綺麗な言葉で御託を並べても、抱きしめても、身体で繋がれない事を自覚してショックでした。自分に理解のある恋人が心に絶大なリラックス効果を与えることはどの恋愛小説にも書いてあるし、好きな人とのスキンシップが鬱対策になることは巷で有名ですし、勿論私も彼女に幸せになってほしいんだけど、私が毎日彼女にリプを飛ばしても、グッズをたくさん買っても、仮に接触できる位置にいて、毎日抱きしめても、体の芯から喜ばすことはできないんだと落胆しました。彼女の性的嗜好が男なのか女なのかはたまた両方なのか知りませんが、一般論というかマジョリティ重視で話をすれば私(女)の勝率はグッと下がってしまうわけです。結婚して毎日お顔見ながらご飯食べたいぐらい好きなのにね!

こんな感じで、本能的には女性を喜ばせられないことに絶望し、諦めていたわけですが、この本を読んで体の奥から充足感を与え、味わうことに性別は関係無いのだと痛感した。よかったー!
お互い離れ離れになっている時もお互いの体を思い出し、どうしようもない心と体の疼きに発狂する。会えた日には骨まで食い尽くす勢いで愛し合う。その描写を私が描くと下品になるだろうけど、中山さんが描くとクチナシの花みたいに可憐で香しいものになる。

本気で愛せば愛すほど、その期待値が相手に対してグっと上がって、そこにギャップがあるとボロボロになっていくわけですが、それは誰かに依存してしまう心の弱さではなく、むしろ1人の人間をボロボロになる程愛した戦傷なのだと。日常生活や自分の精神や肉体を捧げて狂ったように人を愛してみたいですね。

結局、快楽から破滅に向かったクーチと塁が残したものって何もなくて、ただその2人の間に凄まじい愛があった事だけがこの小説に記されています。2人の間に愛以外必要ないんだよね
なんせ私たちは冒頭で塁が28歳で死んだことを知らされてますから、この物語がハッピーエンドではないことをすでに頭に入れながら読み進めるのです。始まったら終わるだけ。片道切符しかない破滅の旅に巻き込まれる。
塁とクーチの関係もきっとそうだったんだろうな。

なんとなく後味悪くて、泣いちゃいそうで、どうにかできなかったのかなー、2人がどこでどうすればずっと一緒にいられたかなぁとか色々考えちゃってたんだけど、本人たちもハッピーエンドなんて望んでいなかったのかもしれない。結末や利害、後先を考えずに一瞬の快楽に身を任せ続けて。


「薔薇が咲いた。脳髄の裏側の白い薔薇が、ぱっと咲いた。」

脳髄の裏側の白い薔薇を咲かせられる瞬間が果たしてあたしにもくるのでしょうか。
あまりに凄まじい文章だったので実はまだ消化不良で完全に自分のものにできていない。しかもたったこれっぽちの文章を書くのも2ヶ月もかかってます。あーあ!


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