中学校には行っておけという話

著:生き恥


はじめに

対象読者について


 冒頭からこんなことを言うのもなんだが、おそらくほとんどの人にとってこの話は関係がないことだろう。タイトルから分かる通りこのnoteは「中学校に行け」という趣旨である。だから、対象読者は
・これから中学校に通う小学生
・今、中学校に通えていない中学生
・これから子供ができる可能性のある人
くらいだろう。しかし該当しない読者もぜひ、「偉い人が作った社会のルールを踏み外すとどうなるか」という実験の被験者ノートとしてご覧いただきたい。また、一般人にとっては「不登校だった人間が抱えるコンプレックス」を理解する機会は乏しいはずである。ぜひ勉強の場として活用してほしい。

自己紹介とnoteの概要

 まずは簡単に、私自身の不登校について記そう。私が学校に行っていなかったのは中学一年生の半ばから三年生までの、約二年半である。そしてこの間への、今の率直な感想は「後悔」である。この二年半がいかに大切であったかを、机上の空論的に語るのがこのnoteになるだろう。そして、これから述べるその後悔は三章立てになる。すなわち、「勉強」「健康」「社会性」である。特に最後は最も大事であるから、是非読んでいただきたい。

勉強について

どこかに待ち受ける「壁」

 学校生活全般において、その中核を担うのはやはり「勉強」であろう。例えば数学において、これまで使われることのなかった文字が現れるのは中学校に入ってからである。また言語についても、これまではほとんど母国語にのみ注力されていたが、英語教育が本格化する。何についても中学校に入ると勉強のレベルは変わるのである。そしてそれらは多くの場合、中学校でしか得られないものである。
 では、この勉強を使うことはあるのか。結論から述べればある。大いにある。男性の大学進学率が60%に迫る我が国における「普通の人生」を考えれば、大学まで進み就職するというのが王道であろう。この道において、中学校で学ぶ内容はあまりにも重要である。高校入試にしても大学入試にしてもベースとなるのは中学レベルの知識であるからだ。そして社会ではこれは「一般常識」と呼ばれ、知らなければバカにされる。そのような技能をもっとも機能的に学べる機関こそが中学校なのである。王道を歩むなら、どこかでその三年間を、自力で取り戻さねばならない。故に、中学校に行かなかった人間にとって、王道は修羅の道となるのである。
だから、中学校に行け。

「壁」への対抗-生き恥の場合


 私の場合を見てみよう。私は中学校に行かず、しかもその間一切勉強することは無かった。したがって、まともな高校には行けるはずが無かった。そこで学力が全くなくても行ける高校として、通信制高校を選んだ。何となく「ちょっといい大学に行きたい」と考えていた私にとって、この高校の進学実績はあまりにお粗末なものだった。大学に行く人は多いが、その実ほとんどは「指定校推薦でFランに行く」というパターンだった。流石にそんな学歴はちょっと嫌だったので、成成明学くらいを目指して勉強を始めた。そこで気づいたことが不登校ゆえの壁である。皆が大学入試までの限られた時間を、いかに効率よく使うかを思案している中、私は中学英語をやっていてとても悔しいし、後悔した事をよく覚えている。
「中学校に行けばよかった」と。
このように、「壁への対抗」はあまりに厳しいものである。

健康について

意外と忘れがちな「学校の役割」

  中学校に行かないことで起きえる問題は勉強だけでは無い。次に指摘したいのは身体的な健康についてだ。これはさして重要ではないし各自のライフスタイルに依るところだが、それだけに不登校当事者でないと気付きにくい視点である。それは「運動不足」である。公立の中学校では、ほぼ義務的に部活動に参加させられる。そこで運動部に入れば間違えなく日々の運動量は増えるし、文化部でも体育の授業で週に1度程度は運動する機会に恵まれる。一方で不登校になると、そのような機会は趣味にでもならぬ限りは有り得ない。大概は部屋から出ずに活動するので、極端に痩せるか太るかになりやすいだろう。身体の成熟するこの時期にどの程度運動して、どのような体型になるかは今後の人生を左右するものであるから、やはり中学校に行かないというのは健康においても大きく遅れをとる行為だ。誰も、不健康になりたいとは思わないだろう。
だから、中学校に行け。

社会性について

中学校で学ぶ「社会性」

   中学校に行かない最大のデメリットは、社会性が欠如しやすいということだ。中学校は勉強をする以上に、上下関係や友人関係といった基本的な人間関係を展開する練習の場である。

対人スキルの「臨界期」


 しかしこの意見に対し、以下のような反論があるかもしれない。
「でも社会に出ればこんな機会、いつでもあるんじゃない?」
確かにこの意見は間違っていない。もちろん人と接して社会的スキルを培う機会は、引きこもりにでもならない限り必ず存在しえる。しかし、大切なのはその時期である。言語学には「臨界期仮説」という説がある。これは言語習得における説で、ある言語を完全に習得できるのは一定の年齢(臨界期)までなのではないか、と考える説である。例えば我々は、日本語の動詞の活用をしっかりと説明することは出来ないが流暢に日本語を話せている。これは我々が臨界期に日本語と触れ続けたからである。
 私は社会性、すなわち人付き合いのテンプレート的な発想の習得にも臨界期が存在するのではないかと考えている。言うなれば「対人スキルの臨界期」である。これをよく表した言い回しが「多感な時期」という言葉だ。多感な時期はよく、人間関係で失敗を起こす。この試行錯誤こそ人付き合いの能力を鍛え上げるのだ。反抗期という言葉もこれに然りである。人として成熟してしまってからではもはや、手遅れなのである。
だから、中学校に行け。

生き恥の場合-他人と違うことの不安

 これについても私の場合を見てみよう。ここで本来ならば「コミュ障」と言われるようなエピソードを紹介したいところである。確かに、「こういう会話が苦手」とか、個別事例を話せばいくらでもあるのだが、これについては個人の感じ方が多分に含まれてしまうので、言及するのはやめておこう。
 また、もっと明らかな問題としてはそもそも「不登校だった」という経歴自体がコンプレックスになってしまうというのも大きい。中学校の時のエピソードやどんな部活をやっていたかというのは雑談の鉄板ネタだ。これには、とても困ってしまう。まさか不登校だったことをその場で晒して、しらけさせたく無いし、閉口するしかない。こんな状況がもし無いとしても、ふと自分の半生を振り返ったときに、不登校という穴が空いているとなんだかとても気が滅入ってしまう。
 もしくは実害的なことを言うと、地元に友達がいないというのも悲しいところだ。私の場合幼馴染というものもいないので、本当にまるで存在しない。こういう人々に対し、かのみちょぱ氏はこのようにおっしゃった。

地元に友達いない人は性格ヤバイ

まさにその通りすぎて何も言い返せない… 例えばよく聞く話、「成人式に行ったら懐かしいメンツ」ということは絶対にありえない。だって顔も知らないのだから。一応言っておくと、私は成人式には行っていない。行く気さえしなかった。また、これもよく聞く話、「昔の友達から突然連絡が来て…」というもの。これもあり得ない。だって、そもそも昔の友達なんて存在しないのだから。こんな虚無感混じりのコンプレックスを一生抱えることになるのが不登校者である。

反論できない反論

 しかし、ここまで話してきた社会性のくだりはある反論によって崩れてしまう。それは
「中学校に行ってないから社会性がないんじゃなくて、そもそも社会性がないから中学校に行けなかったんじゃないの?」
である。これを言われてしまったらおしまいだ。確かに私は小学校の時から社会性がなくて、問題児すぎるが故に小学校を転校している。さらにADHDと診断され小学生の時分から薬を飲んでいた。こういう自分であったから、前の章の話は強く断言することはできない。またこんな反論もある。
「実際の中学、そんなんじゃないよw」
これも、言われてしまったらもうおしまいである。冒頭にも述べた通り私は中学校にほとんど行っていないので、これまで話してきた中学校観はすべて想像に過ぎない。知らないから「幻想」を抱くしかないのだ。ここまで話しておいて実情の中学校というのはそんなものではないという可能性は全く、ゼロではない。

元不登校が考える「中学校の意味」

 様々な批判のある日本の学校教育であるが、なんだかんだ良いものを吸収できるような時間になっていると思う。中でも、アイデンティティの確立の場という側面は大変偉大である。中学校に身を置く頃は、様々な個性、人々、流行に触れて自分というものを形成していく時期だ。私には、この期間がなかった自分が無個性で、あまりに無価値な人間に見えてしまう。真っ白な紙に有益なメモは何もなく、ただ汚れだけが付いているような、そんなものに見える。いったい、この取り返しのつかない人生の失敗に、どう向き合ってゆけば良いのだろうか。自身を振り返りながらnoteを締めたい。


最後に一言。
中学校に行け!


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