日本の植民地―矢内原忠雄「軍事的と同化的・日仏植民地政策比較の一論」を読む


「軍事的と同化的・日仏植民地政策比較の一論」について

 今回は以前から読もう読もうと思っていた「軍事的と同化的・日仏植民地政策比較の一論」という小論について、備忘録的に骨子をまとめたい。この小論の著者は矢内原忠雄という経済学、植民政策学者である。矢内原事件という名前と共に、皆が一度は聞いたことのあるビッグネームではなかろうか。今回紹介する「軍事的と同化的・日仏植民地政策比較の一論」は『国家学会雑誌』という東京大学が出版する雑誌の1937年2月発行に掲載されたものである。丁度矢内原事件の半年ほど前に発表されたものだ。本論は極めて似通った日本とフランスの植民地政策を比較する内容となっている。大変分かりやすいのでぜひまとめだけでなく本文も一読していただきたい。
※なお本論は国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードした。『国家学会雑誌』掲載版は閲覧できなかったので、戦後に出版された矢内原の論文集『帝国主義研究』に再掲されたものを参照した。これ↓↓

フランスの植民地政策の特徴

地理的側面

 まず矢内原は日本の植民政策と比較するため、フランスのそれの特徴を詳細に述べる。まずは地理的な特徴に関してだが、一言にまとめれば「土地の経済的価値を無視して、隣り合ったただ広いだけの土地を征服する」ことがフランスの植民地政策の特徴といえる。ここで彼が主眼としているのは特にアフリカ大陸における植民地である。下にその地図を示した。

アフリカにおける仏植民地

この地図を見れば一目で分かるが、フランスの植民地は大部分が地理的に連続している。これを矢内原は「地理的ブロック」と呼ぶ。そしてこの地理的ブロックは計画的に広げられたわけではない。そもそも1870~80年代、フランス国内は植民地に関してあまり積極的ではなかった。それでもこのように領土が広がっていった原因を、矢内原は出先の軍隊の自発的・突発的な行動だとする。軍隊が広げ、既成事実となってしまった土地を政府が領土とするという、統率のとれていない歪んだ構造がこのような無計画な植民地を生んだのだ。そもそもフランスが領有した北西アフリカはサハラと呼ばれ、不毛で生産性のない土地である。ここはまさしく独活の大木のような土地なのである。対してイギリスの植民地政策はこれと真逆である。イギリスは植民地を取捨選択し経済的に豊かな土地や軍事的要地を計画的に領有していった。だからイギリスの植民地は比較的飛び飛びになっているのだ。
 矢内原はこの地理的特徴を以てフランスの植民地の目的を、広大で地続きの領土を有しているという「国家的虚栄心」と他国の領土を経ずして派兵できる「軍事的意識」の満足とした。この上で植民地における経済的利益は二の次とされたのだ。地図を見れば確かに、自国の領土だけを通って進軍することができそうだ。また、サハラを縦断する鉄道の計画があったそうだが、経済的な利益はあるとは思えず、流石に実現されなかったそうだ。(ちなみにこのような「軍事的意識」の文脈では地中海は「フランスの湖」と形容される。)

財政的側面

 次に矢内原は財政面から植民地を見る。ここから分かるフランス植民政策の特色は「軍事費用が過大であること」である。ここでサウスウォスという人物のデータを引く。氏によれば、軍事費さえなければ植民地はフランス財政にとって大きな負担ではない。植民地の行政に対してフランス本国が支払った費用、すなわち純行政費は1907~14年の間2400万~3700万フランに収まっている。一方で純軍事費は1億6200万フラン、6億1300万フラン、5億6000万フランと増加している。これらの値はもっと不釣り合いになってゆき、近年では純行政費8400万フランに対して純軍事費は23億1900万フランまで膨れ上がっている。しかもこの値には海軍の費用は入っていないそうだ。
 では、なぜこのような結果になってしまったのだろうか。これに矢内原は三つの理由を挙げる。まずひとつは前章でも述べたが、領土の拡大が出先の軍隊によるものであり本国の統制が不十分であったことである。二つ目は征服後の軍政が長すぎる点である。例えばアルジェリアでは30年も軍政が敷かれていたそうだ。最後に挙げる理由は原住者対策の失敗である。後述するがフランスは植民地において同化政策を行っていた。そのため原住者による反抗が多く、鎮圧に多くの軍隊を要したそうだ。

経済的側面

 次に矢内原は植民地の経済を見る。フランス植民地の経済的特色は「ブロック経済とそのための関税同化政策」である。ここは経済の初学者にとっては若干難しい内容であったが、かみ砕いて考えれば時代遅れの貿易政策を行っていたということだろう。フランスは各植民地によって関税を変えるといったことをせず、すべてを画一的に扱った。そのうえで植民地をあくまで本国の拡張であると考えブロック経済を行った。しかもその植民地は土地が大きいだけで生産条件は悪く、かつ植民地自体の産業発展をないがしろにしたせいで、実際には植民地は(原材料食料にせよ重要な原材料にせよ)あまり意味がなかった。
この点においてもフランスはイギリスと対極だ。イギリスは植民地ごとの特色を理解し、効果的に生産を行った。そしてこれを世界の市場に流した。矢内原はこれを見習い、フランスもブロック経済政策から世界経済政策に転換すべきだったと考えている。
 また植民地の人々をどのように使ったかも重要な点である。フランスは彼らに「本国人口の少なさを補う意義」を見出した。これは生産手段としてではなく、あくまで軍事的な人材についてである。この当時国際連盟は「警察または地域防衛以外の目的で土着民軍隊を使ってはならない」としていたが、フランスはこれをうやむやにして使っていたそうだ。

政治的側面

 さて、フランス植民地の政治的特色を端的に表すなら「本国中心の同化行政と内地延長主義」であろう。フランスはあくまで植民地を「自国の一地域」として扱っていた。したがって本国政府による中央集権の対象であったし、植民地はフランスの一部の行政組織と考えられた。特に植民地の中心的地位を占めていたアルジェリアは内務省の所轄とされ、本国と同様に県が設置された。このような扱いが「内地延長主義」である。これは紛れもなく原住者をフランス人にする「同化政策」の一種だ。
 またフランスは植民省という省庁を設けていた。しかしその管轄は遠隔地や重要性の薄いところのみで、ほとんど権力を持っていなかった。(アルジェリアは内務省、チュニジアとモロッコは外務省の管轄。)このように植民地を担当する省庁の力が弱いことは、一見地方分権を推し進めるように見えるが、弱い力の分本国が行政に介入するため、かえって中央集権を強化してしまう。
 続いて参政権などに関してだが、フランスは一部の植民地に本国の上下両院への選挙権と被選挙権を認めていた。仏領インドやセネガルでは現地人にも参政権が与えられたため、黒人代議士もいたそうだ。さらにアルジェリアでは原住者にフランス国籍を与えることにも前向きな動きがあったようである。これらは一見良い傾向に見えるが、あくまで内地延長主義や同化行政の現れであり、その一環でしかないのだ。それは行政において、下級官吏までもフランス人だけが担ったように、原住者に行政を任せないことからもよくわかる。上記のように議会への参加は認められたが、植民地自身は専制的で立法議会もなかったのだ。

原住者対策について

 ではそのようなフランスが原住者に対していかなる政策をとったかと言えば「同化政策」の一言である。まず法律については各々の植民地の社会事情や発展段階の如何を問わず、刑事においても民事においてもフランスの法律が一律に適応された。また同化は教育において強く現れる。フランスが重視したのはフランス語教育である。例えばAlbin Rozetという人物は以下のように述べた。

北アフリカ人がフランス語を話す日こそ、それは真実にフランスの地となり、祖国の延長となるである。それはフランスの如く感じ又考えるに至るであろう。

Albin Rozet

結局この考えはソシュールなどの批判に遭い、第一次大戦後に「協同」と銘打ち路線変更をしたように見えたが、結局そこにおいても根幹はフランス語教育であった。同化政策は原住者社会の法制、言語、慣習、宗教などに対する破壊的干渉である。だから、あまり文化が発展していない社会には有効であるが、そうでないところに適用するのは難しい。したがってアルジェリア・チュニジアなどの植民地では反乱が絶えないし、だからこそ軍事費がかさむのである。

まとめ

 総じて、フランスの植民地政策の特徴は「軍事的支配と同化政策」であった。これらに共通する基礎は「本国中心の絶対支配主義」であり、同化政策はその文化的表現軍事的支配はその武力的表現であるということができる。

日本の植民地政策との比較

地理的観点

 では以上のフランスの政策を日本のものと比べてみよう。日本の植民地が地理的に集中していることは、欧州諸国のそれがばらけているのに対し、明らかだろう。これは「地理的ブロック」ということができる。日本から「日本の湖」たる日本海を超えて朝鮮、その地続きとしての満州、その地続きとしての内蒙古、さらにその地続きとしての北支、というふうにフランスの広がり方とよく似ている。またこの地理的ブロックの計画や遂行は出先の軍隊が自発的に引き起こしたものである。日本国民はあくまで既成事実としてその土地を得たのだ。また満州経営の為、ロシア国境まで続く鉄道の敷設を日本が急いだ事実も忘れてはなるまい。これはまさしくフランスがサハラを通る鉄道の計画をしたように、経済的利益のためでなく軍事的観点から指導されたことも明らかである。
 しかし、この地理的ブロックが持つ意義というのは日仏の異なる点である。フランスの場合、敵対国ドイツに背を向けるような領土的発展である。普仏戦争から転換するような力として領土拡大を目指したのである。この目的は例えば、フランスがアルザスの農民を積極的にアルジェリアに移民させたことからもうかがい知れる。また、敗戦により失われた権威を取り戻すための国家的名誉に基づく動機もあるだろう。一方で日本の場合、その領土は敵対国であるロシアや中国に突進するように発展している。そしてこの当時の中国は徐々に民族国家的な統一を実現しつつあり、国家的な意識が強くなってきていた。矢内原はこのような観点から中国をフランスにより支配されたアルジェリアやチュニジアと同一視すべきではないとする。したがって今のロシアや中国にフランスが如く進行すれば、フランスの「戦争から植民地発展への転換」とは真逆に戦争を誘発してしまう可能性を秘めていると提言する。

財政的観点

 では財政においてはどうであろうか。日本の植民地の中でも、台湾、南洋諸島については当時すでに国の補助金は打ち切られたが、朝鮮・樺太・及び関東州は引き続き財政補助を受けていた。しかし日本がこれらの地域への補助をやめない理由にはパターナリスティックな保護政策という観点もあるだろうから、財政補助の継続という事実のみから、一概にフランスよりも日本が植民地開発で遅れをとっているということは断言できない。むしろ実際には開発速度はフランスよりはるかに早かったそうである。
 しかし、このような財政補助は行政費に限ったものである。軍事費用について矢内原は正確なデータを持ち合わせていなかったが、誰の目から見ても満州事変及びその後の大陸政策において莫大な軍費が費やされていることは明らかだろう。行政費に不釣り合いな巨額であったことは疑う余地がない。日本の植民地政策は、満州経営や匪賊の盗伐による軍事費膨張という点でフランスと同一タイプに見えるのだ。

経済的観点

 日本の植民地はフランス同様本国中心のブロック経済で、関税同化政策も実施している。さらにこの程度はフランスを超えている。世界市場の重要性が明らかなのに、日本がブロック経済を敷く理由は軍需品の帝国内自給自足を目指すためであろう。
 人口に関しては日本とフランスは対極の状況にある。当時フランスは人不足であったのに対し、日本の人口増加は著しいものであった。そのためフランスは植民地を人口供給地とし、日本は過剰人口の移住地とした。この違いから、フランスは現地民に軍事訓練を施すが、日本は植民地に徴兵を実施せず武器を保持させない、軍事訓練の機会も与えないという軍事上の違いがみられる。これらは正反対に見えるが、どちらも「本国中心の軍事的見地に基づく政策」である点で共通の意味がある。

政治的観点

 日仏の植民地政策は政治的な観点においても類似している。まず両国は中央集権的で、内地延長主義の官僚的行政をとり、下級官吏まで本国人が占め現地人を行政には参加させない。また日本については植民地の官吏となるのに、特別な要件が無く本国と同じ能力の人間が就くことができた。したがって植民地に独自の行政や自主的な政治発展も認めない。これらにおいて日本の植民地行政上の同化政策はフランスと同様か、それ以上ということができる。
 またフランスの植民省のように日本も拓務省という官庁があった。しかしこれは力が弱く、このことが中央集権制を弱めるのではなくかえって強めている。まさしく植民省と同様の現象が起こっているのだ。(ちなみに満鉄の経営は外務省でも拓務省でもなく、内閣直属の事務局が行い、拓務行政は行政整理のたびに整理の対象とされていた。)
 一方で植民地の参政権という点については日仏で異なるところである。前述のとおり、フランスは内地延長主義の論理的な帰結として、植民地選出の議員を本国に加えていた。それに対し日本は出版当時、植民地人参政権の問題に関してなんら決めていなかった。(一応朝鮮から貴族一名、台湾から実業家一命を貴族院議員として勅選したことはあるらしい。)ただ、地方自治や特別な議会の設置には断固反対するのが日本の姿勢である。しかしもし仮に将来的に参政権を認めさせても、植民地特有の政治団体ではなく本国議会へであろうと矢内原は考える。(事実その後、45年に朝鮮から23名、台湾から5名を定員に選挙が行われる予定だった。もちろん本国議会に。先に敗戦したため選挙は実現されなかった。)

日仏の共通点は偶然のものか

日仏の共通点

 ここまでをまとめると、日仏の政策の共通点は「軍事的及び同化的見地の優越」であるといえる。同化政策は生活レベルを上げるという意味で温情的に見え、軍事的支配と矛盾するように見えるがそうではない。同化政策は原住者の社会組織、生活、伝統文化に対する破壊的干渉であり、軍事的支配も社会的文化的生活の破壊をする。さらに軍事行動によって政治的な工作を行うことさえある。この意味で二つは相性良く、両立するものなのだ。

フランス同化政策の根拠

 では、フランスがこのような同化政策を行う根拠は何だろうか。それは啓蒙哲学およっびフランス革命である。これに基づけば人間は出生に関わらず理性を持つ点で同一であるし、だからこそ原住民もフランス人になれるし、ナポレオン諸法典を適用できうると考えたのだ。つまりフランスの同化政策の根拠となるのは哲学的なバックボーンなのだ。

日本の同化政策の根拠

 では日本の方はどうであろうか。こちらは一言で言ってしまえば「日本国民精神の優越」である。つまり、何ら哲学的根拠は持ち合わせない。例えば台湾において以下のようなエピソードがある。蔡培火という民衆教育家が台湾語の表音をローマ字で教えようと考えたが、これは「国語教育に抵触する」という理由で不許可とされてしまった。そこで彼はカタカナを用いてそれを教えようとしたがこれも不許可となった。この理由に関して日本側は「字語そのものに宿る国民精神」なるものを根拠とした。これは例えば「大和のヤは無限という意味、マトは誠という意味」といったものである。またその「精神」そのものについては「日本の精神は君に忠、親に孝」と説明する。

小まとめ

 以上のエピソードから、日本の同化政策の基本は「まずは日本語を教え日本精神を所有させて、彼らが晴れて日本人となってから社会的政治的自由を与える」というものだ。これらはフランスのような自然権を持つ人間観に基づくものではなく、より民族的・国民的であるから軍事的支配とも結びつけやすいものである。

植民政策の共通点は偶然か

 これらを踏まえて、矢内原はその共通点を「国民性の類似」によるものと推測する。ではフランスの国民性はどのように成立したのだろうか、即ち、啓蒙や革命はいかに同化政策に転じたのだろうか。そもそも自然法的人間観はフランスだけでなく欧州諸国が共通に持つ思想であった。これがフランスだけを同化政策に導いたのは、専制政治から革命を経て共和制になった故に共和制下においても過去の絶対君主制の伝統を継承した「中央集権的な軍隊国家」となったからである。まさにこれこそがフランスの植民政策を同化的・軍事的にした社会的基盤なのである。さらに言えば共和制下のフランスがそのような要素を強く残したのは社会的・経済的組織において、農民や小企業の社会層が有力に残ったからである。このように考えれば日仏が同様の植民政策をとることは偶然ではなく、同じ社会基盤の反映だといえる。(おそらく矢内原は封建社会から明治政府までの流れをさして言っている??)

軍事的・同化的植民政策の効果

軍事主義の効果

 では、日仏の共通点である軍事的同化的な政策にはどのような効果が期待されるか。まず、軍事主義は、植民地の獲得・拡張・秩序設定に有力であることは言うまでもないだろう。しかし、経済的価値をまるで考えず闇雲に版図を広げたり、鉄道敷設の例にあったように施設建設において経済的開発よりも軍事的目的を主眼にしたり、武力で威嚇することがかえって原住者を刺激するなどの多くの危険がある。そのため軍事主義は植民地の獲得・統治を不経済にし、本国の財政負担、植民地の政治的混乱や経済的不発達の原因となる。

同化主義の効果

 同化主義は上でも述べた通りパターナリスティックなものである。また本国の言葉を教えるのは行政上便利だし、原住者は社会的活動や知識の吸収がしやすくなる。しかしこの利益を享受できるのはごく一部の本国人に接触することが多い人間のみである。それ以外の人々にはむしろ中途半端な教育による知的道徳的退歩を招いてしまう。また仮に本国語が普及しても精神的同化には至らないことは、アイルランドに英語が普及しているのに同化できていないことなどからよくわかる。思想の同化は社会生活の共同と文化流通の自由によって生じるのであって、言語の共通はその一手段に過ぎない。つまり社会生活上の圧迫・差別待遇をできる限り減らし、文化や思想の発表をできる限り自由にすることこそが有効なのであり、極端な言語教育による圧迫はむしろこれらの最大の妨害である。(これがむしろ原住者の反感を買い感情的な融和を妨げるのは想像に難くない。)また、蔡氏の例の論理と「文字や発音で国民精神が同化される」という考えを照らし合わせれば、忠や孝といった文字、発音によって日本人は中国人に同化されてしまうのではないかと矢内原は批判する。

台湾統治という例

 最後に矢内原は示唆的に台湾統治の例を挙げ、論をくくる。台湾統治の初期は匪賊を討伐するため大量の国費が使われた。しかし日本の財政難によってその軍政は終わった。警察力を主体に治安維持をおこなった結果匪賊は平定され産業開発を進めることができた。台湾はこのような道を辿ったため早い段階で国の負担とならなかったのだ。矢内原がこれを執筆しているころ、日本は満蒙において、台湾を超える軍事的同化的政策を行っている。これらが経済的、財政的、文化的建設に果たして有効だろうか。満州国民と日本国民を以て東洋の平和に導けるのだろうか。フランス植民政策や自身の台湾統治を参考にすべきだろう。これが矢内原が本論を記した理由である。

感想

 冷静な分析・比較の中に棘のある表現もあり、締めくくりもかなり挑戦的であったため楽しく読み進めることができた。一方恐ろしいと感じたのは、矢内原がこの時点で「ロシアや中国にフランスが如く進行すれば、「戦争の危機から植民地発展への転換」とは逆に戦争を誘発するかもしれない。」という分析を提示していることだ。おそらく当時の学者には自明のことだっただろう。にもかかわらず愚かにも戦争を激化させた日本の、当時の言論空間の息苦しさや自由の無さをうかがわせるその後の歴史の顛末にぞっとした。(事実矢内原はこの半年後に東大を追い出されているし…)
 ネット右翼の口癖たる「朝鮮は植民地じゃない!日本だったんだ!」という論のいかにばからしいことか。実際これは的を射ている。本論にあった通り、内地延長主義に基づきこれらの土地は確かに「日本」の一部とされただろう。しかしこの発言は「アジアの盟主」となりたかった日帝のおごり、勘違い甚だしい「啓蒙思想」をむしろ強調するのみである。我々が朝鮮や台湾を近代化したという事実は一部では認められるだろう。しかしその裏に、各々の土地がもつ特色をまるで無視し、画一的に「日本」の烙印を押された人々の生活や文化の犠牲があったことを忘れてはならない。これは何も台湾や韓国について述べているわけではない。日本は沖縄や北海道に対してもそうであった。少し前に炎上した「方言禁止記者会見」を思い出した。日本の、多様性に対する無理解は甚だしいものである。近年の「リベラル」と呼ばれる人々への反動的発言は概ね同化政策と変わらないといえよう。今こそ植民地の時代から振り返り、矢内原の分析を見つめる時ではなかろうか。



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