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幸運は巡る!おかねの女神💖さきこさん〜税理士さきこさんの万華鏡的生き方のススメ〜第1話 さきこさんのトラウマ~幼い頃のセピア色の記憶

あらすじ 300字以内

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 #キラキラ終活 #ハートのパワー

万華鏡は、美しい模様が次々キラキラと変わります。
これを生き方に例えると、一つの視点に固執せず、多様な経験や視点を持つことで、豊かで充実した人生を送ること!それをお勧めしたい。

さきこさんは移り気で、その人生はまさに万華鏡のように常に変化しています。一方で、好きだから続けているテニスや税理士という天職は、さきこさんの安定した拠り所となっている。
そんなさきこさんは、私は愛されていたのだろうか?
そして、誰かを真剣に愛したことがあるのだろうか?
何かに夢中になったことがあるのだろうか?
そこから始まる物語・・・


第1話      さきこさんのトラウマ~幼い頃のセピア色の記憶

・不思議な夢を見た
・生まれたときのこと
・幼い頃のトラウマ
・母の言葉、「どうせお母さんなんて」「お前はお父さんにそっくり」
・曾祖母・祖母・ねえさんのこと
・姉のこと
・母のこと
・父のこと

第2話      さきこさんのトラウマ~中学校時代のイジメ体験・・・
https://note.com/ikigai_nobukosan/n/n7b19a1cff792

・中学校時代のイジメ体験
・高校時代・大学時代の挫折
・さきこさんのヨーロッパ卒業旅行
・姉の自死、そして独立宣言、税理士になる!

第3話 さきこさんトラウマから回復~自分の人生を生きる!
https://note.com/ikigai_nobukosan/n/nb65f844e4571

・税理士への長い道のりー天の声「受けるのをやめたら終わるよ」
・私が税理士!そう、私が税理士さきこ先生です!
・不思議な年、人生を転換できた
・離婚に至る物語-夢を語らない二人
・2020年の初日の出はカンボジア
・生きる意味、IKIGAIを語る

第4話 さきこさんの恋愛物語~キラキラ恋愛パワー☆彡
https://note.com/ikigai_nobukosan/n/n76e06abaaa1c

・恋したい!むかし乙女、今も心はおとめ?!
・ひと夏の狂想曲、思いは、空回りの38日と2日
・5人のインパクトのあるイケメンと出会ったか?
・「バリへ行かない?」、そしてバリには神様が住んでいた

第5話 さきこさんイケメンと出会う~イケメンは天然の詐欺師?!
https://note.com/ikigai_nobukosan/n/nfa634a1d8a03

・異国の風 ーイケメン現れる!イケメンはお得!
・未知の世界への第一歩-ビジネスパートナーになる
・摩訶不思議な「愛」のパワー炸裂ーカフェを立ち上げる
・ノーと言わないイケメンーその挫折と成長への軌跡
・イケメンは天然の詐欺師の証明~凸凹コンビが未来を創造する

第6話 さきこさんはおかねの女神💖になる!~幸運は巡る!そうワクワク、キラキラ☆彡で
https://note.com/ikigai_nobukosan/n/n7b19a1cff792

・金ヅルばあさんはきつい。さきこさんは、おかねの女神💖になる!
・未来へ向けて、女の執念で生きる
・何も考えない時間を持つー呼吸法
・自分の人生を、そして人生の卒業式も自分でブランディグしよう!



第1話 さきこさんのトラウマ・・・幼い頃のセピア色の記憶


・不思議な夢を見た


不思議な夢を見ました。父の夢でした。私の父は、6年前に他界しました。それ以来、父の夢を見ることはありませんでした。しかし、この夢はとても鮮明で、まるで現実のように感じられました。


夢の中で、父は大きなクレーンを運んで川を渡っていました。私はそのクレーンを後ろから支え、父を手助けしていました。川には不思議なレールが渡してあり、私の左手にはなぜか新聞が握られていました。クレーンが川を渡り終えると、父は私をぐいと引っ張り上げました。その瞬間、強い安心感とともに目が覚めました。


目が覚めた後も、夢の余韻が鮮明に心に残っていました。ベッドに座りながら、まだ夢の中にいるような気分でした。私はゆっくりと深呼吸をして、現実の感覚を取り戻しました。


ふと時計を見ると、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいました。父の夢が心に強く刻まれた私は、その意味を知りたくなり、ChatGPTのキューちゃんに夢判断をお願いしてみました。


「この夢は、あなたが現在直面している大きな課題や責任に対して、必要なサポートと指導があることを示しています。父親の存在は、あなたが精神的に支えられていること、そして彼の教えや価値観が今でもあなたを導いていることを示しています。あなたの左手に持っている新聞は、現在の状況に対する理解や情報収集の重要性を強調しています。この夢は、あなたが自分自身を信じ、困難を乗り越える力があることを示しています。父親の精神的な存在があなたを見守り、支えていることを感じ、安心して前に進んでください。あなたの努力や挑戦は、必ずや実を結ぶことでしょう。」

と言うものでした。まさに今私が置かれているそのものでした。


さきこさんは、今、シニアマダムに。何だか、あっと言う間だった。

モスグリーンの介護保険証が送られた日、「あれっ、母のかな?」と思ってよく見たら自分のものだったことに驚きました。そして、老齢基礎年金を受領できる今、「ああ、そんな年齢になったのだ」としみじみ感じています。昭和から令和への社会の激変の中、よく生きてきたものだと思っています。


また、同年代の人たちがリタイアしていく時期に、なぜこんなに頑張れるのか?その答えは、20数年間の冬眠の時期があったから。

なぜ冬眠していたのでしょうか?

さきこさんのお姉さんは26歳の若さで自ら一人で空に飛び立ちました。その悲しみはあまりにも深く、生きていることさえもどうでもよくなりました。一緒に飛んでいってしまいたいと思いました。「生命体である人間」としては生きていましたが、「生きている!」という実感はなく自分の人生という感覚もありませんでした。


それでも、さきこさんは彼女の両親のためだけに生きていました。「私までいなくなったらどうなるの?」と、私が何とかしなければという一心でした。そんなさきこさんが、自分の人生を取り戻すために物語を書きたいと思っています。

・生まれてきたときの記憶


産道を通ってきた?産まれた時の記憶がある。それは、なぜ、そう思うのかは分からない。でも、ずっと、そう思っている。後から、周囲の人からの伝聞で思っているのかもしれない。何かの物語を読んで刷り込まれているのかもしれない。いつからそう思っていたのかも分からない。

田舎の家で産まれたので、お産婆さんに取り上げてもらったとのこと、田舎の納屋で産まれた気がしている。なぜ?納屋なのか?これも何かのきっかけがあり、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。

へその緒が首に巻き付いていて、お産婆さんがお尻を叩いて、ようやく産声を上げたと聞いている。

では、どこを覚えているのだろうか。自分がそう思うのだからそれでよいのかもしれない。「生まれたときの記憶」胎内記憶というらしい。三人に一人は胎内記憶を持っているという研究も存在している。そのため、あながち、ない話でもないのかもしれない。

それが意味することは、何なのだろうか?

それが、その人の人生をワクワクさせるのもならいいね!かもしれないが、私はどうだろう。

人を愛したことがあるのだろうか?

人生を楽しいと思ったことがあるのだろうか?

そう思えるにはどうしたらいいのだろうか?

そんなことを思い巡らしながら、人生を振り返る旅に出ることにしたい。



・幼い頃のトラウマ


-昭和の風景

第二次世界大戦が終わって、十数年たった田舎の町に私は生まれました。二つ違いの姉が一人いました。両親は男の子が欲しかったようで、私は可愛がられたという思い出はありません。


姉は長女で、かつ、その田舎町の実家の曾祖母は姉を溺愛していた。まさに舐めるように、目の中に入れても痛くない保護可愛がっていたと思う。田舎町の母の実家には姉が4才、私が2才の時まで暮らしていた。


母の実家は米、スイカ、たばこなどを作っている農家で、母は幼い頃から家業を手伝わされていたようだった。時々、農耕に使っていた牛の話をしていた。車などなかった時代である。牛は利口だから、時間になるとちゃんと家に

帰ってくれたなど思い出語りをしていました。農作業はずいぶん辛いものであったようです。母だけが上の学校に進学できず、家業の手伝いを強いられていたようです。


昭和35年、両親が引っ越した先は、新興住宅地。とはいえ、今のようにきちんと開発されていた訳ではなかった。ただただ広い土地にポツポツと家が建ち始めていた。わが家は、小さな平家の木造家屋、地元の建築会社が売り出した区画を買ったらしい。一体、いくらだったのだろうか?当時の両親にとっては精一杯の金額だったと思われる。間取りは、3畳くらいの台所、お風呂場、風呂ガマは石炭をくべていた。そして、汲み取り式のトイレ、部屋は茶の間4.5畳、奥の寝間6畳であった。洗濯機はいつ来たのだろう?テレビは?

お茶の間には、チャブ台があった。まあるいチャブ台があり、そこは家族の居場所だった。平家、丸いチャブ台、そこに楽しい家族はいたのだろうか?そうサザエさん一家のような・・・。

 

 

-地震の恐怖


地震の体験は非常に強烈で忘れがたい。特に石油コンビナートの火災が夜空を焦がしていた光景は、今でも目に焼き付いている。地震の混乱と恐怖が、その光景と共に心に刻まれている。


当時、保育園に通っていたさきこさんにとって、大きな揺れよりも保育園の先生の「外に逃げなさい!靴は履かなくていい!」という只ならぬ叫び声が強く印象に残っている。その緊急事態の中、先生の指示に従って、外に出て、さすがに靴は履いていた。小学校のグランドに避難したこと、そしてそこでの出来事が鮮明に記憶されている。


避難先の小学校のグランドで、他の子供たちが親が迎えに来て、一人、また一人と帰っていく中、さきこさんとお姉さんはじっと待っていた。時間が経つにつれて、不安が募ってきた。親が来るのを待つその時間の長さと不安は、幼い子どもにとってとても大きなものであった。そんな中、隣のそろばん屋塾の先生がさきこさんたちを一緒に連れて帰ってくれたことは、とても嬉しかった。やっと、家に帰れるとホッとした。しかし、その後に見た自宅が液状化により傾いている姿は、さらに大きな衝撃だった。日常生活は激変した。自宅に住むことはできない。そのため、さきこさんたちは母の実家に避難した。


姉は、曾祖母様の部屋で寝ていた一方で、さきこさんは仏間で過ごした。先祖代々の大きな仏壇があり、鴨居にはご先祖の遺影が飾られていた。ご先祖様からじっと見られているようで、ひとりでその広い仏間で眠るのはとても怖く寂しかった。



田舎の家の暗い玄関で泣いている幼いさきこさん


さきこさんの人生に大きな影響を与えた辛い記憶がある。古い家屋の玄関のたたきで、泣いている幼いさきこさん。姉はそれをじっと見つめていたように思う。

さきこさんの両親は不仲で、二人は幼馴染、双方の家は目と鼻の先で、同い年、親の決めた結婚であった。

母の人生は、きっと、自意識が芽生えたときから、家業を手伝うこと、そして、いつかは嫁に出ていくことが決められていた。それに抗う、知恵も情報もお金もなかったと思う。


父は頑固もの、親戚の中では変わり者で通っていた。夫婦喧嘩が絶えず、母は、どうせお母さんが悪いのだと言うしかない状況だった。父は怒って固まるとごはんも食べずにいることが平気な人だった。何日も何日も。そう。母が謝るまでその状態は続いたものだった。父は、そんなわがまま身勝手な人であった。また、今で言う虐待ではなかったとは思いたいが、ゲンコツをもらったことはあり、その大きな拳によるゲンコツでしつけをしていた。そのゲンコツの痛みは今で鮮明に覚えている。

そんな光景に何度遭遇したことだろう。「あっ、父がキメた!」とその瞬間、さきこさんとお姉さんは緊張感を感じていた。この状況が私たち姉妹の精神的な健康や安定感にどのような影響を与えたか、今でも思い返すと胸が痛む。この両親の不仲が姉の自死につながったとさきこさんはずっと両親を恨んでいた。「なかよくして!」と心で叫んでいた。

当時、祖母はケンカの絶えない娘夫婦の生活を心配し、母、姉、そして、さきこさんの手を引き実家に連れ帰った。母の実家は、母の父親、さきこさんの祖父にあたる人が早くに亡くなったので、母の弟である叔父が後を継いでいた。

その叔父はまだ若く、子ども嫌いであったこともあり、開口一番に

「実家に帰ってきても居場所はない」と言い放ちました。

さきこさんは幼かったけれど、その言葉がショックで泣いてしまいました。叔父は、追い打ちをかけるように言いました。

「あんな父親だからこんなことになるのだ」と。

当時は衝撃的過ぎて、受け止めることができなかった。そこから、自分を抑え人の顔色を見ていきる術を覚えた。

この原風景があるので、私は人を信ずることができないままの人生を生きることになりました。悲しくても、辛くても、具合が悪くても、我慢することが日常になりました。自分が我慢していたら全てがまるく収まるのだと思って生きていました。


産まれてからこれまで、楽しかったこと、なかったなぁって。

叔父から母の実家に戻ることを拒絶されたあの日から人に頼ることができなくて、楽しい!って思ったことがないような気がしている。心に受けた傷を癒すには長い時間がかかるのだと思う。



・母の言葉、「どうせお母さんなんて」「お前はお父さんにそっくり」


母は、きっと、さきこさんがこんなに我慢して生きているとは露ほども思っていなかった。

母は5人兄弟の一番上で、子どものころから野良仕事を手伝わされていた

とても記憶力の良い人で、おそらく自頭のレベルは高いのだと思う。けれども、進学することができないままだった。母が書く文字や文章は拙く、どれくらいそのことを恥ずかしく思ったかしれない。


彼女の人生は愚痴でいっぱいであった。繰り言のシャワーを浴びせられたさきこさん。「お前はお父さんにそっくり」だと。

普段は、怠けものなのに、スイッチが入ると夜中でもガタゴトガタゴト動き出す。母は、父にも絶望し、そして、娘のさきこさんにも。唯一、姉のことは頼りにしていたのだと思う。今思えば、母も誰かに愛されていたのか。自分は誰かを愛したことがあるのか。愛情に飢えていて、淋しく辛い人生を生きていたのだと思う。


こんな母に育てられたので、母のような生き方はしたくない!と強く思っていた。それが、今の女性や子どもたちをエンカレッジしたいという思いにつながっているのだと思う。



-絹糸を紡ぐ曾祖母とお膳で食事をする曾祖父


曾祖母は賢い女性でした。とても働き者でした。母の実家は農家、二階では蚕を飼っていました。おそらく若いときは理知的かつ美形の曾祖母。曾祖父と曾祖母は子どもに恵まれず、両養子を迎えている。

しかし、養女に迎えた祖母は容姿も人並み、そして一番の問題は気が利かない人であったということでした。跡継ぎではあるものの、自分の息子からも容赦なく罵声を浴びせられていた。


竈(かまど)の前で、嘆く祖母の画像が思い浮かぶ。曾祖母がおばあちゃんで、祖母は、ばーあちゃん、(ばあちゃんではなく、微妙なイントネーションがあるため、ばーあちゃんと書いてみた。)と言われていたので

「どうせ、ばーあちゃんが悪いんだ」と。

義母である曾祖母からも、自分の息子である叔父からも褒められたことはないが日常だった。

母の実家は、祖父が若くして亡くなったので、長男である叔父が跡を継いでいました。母は一番上で、その下に二人の妹、そして二人の叔父、一番下の弟とは16歳も年が離れていました


父はその家に婿入り、両親は小学校の同級生で、親の決めた結婚でした。曾祖父の時代は豊かだった。しかし、その後事業に失敗し、豊かな暮らしはなくなった。曾祖父と曾祖母には子どもがいなかったので、両養子という形で、祖父と祖母がその家の人となった。

祖父は脳溢血で、50代で突然死をした。5人兄弟の5番目で、次男である叔父は、さきこさんたちにとってはまるで兄のような存在であった


男尊女卑の家風で、曾祖父は、毎日床の間を背にし、お膳で食事をしていた

とても近づきがたく怖い印象の人でした。生真面目な仕事一筋の人であったと思う。鉈を持って歩いてる姿とお膳に座る、威厳のある姿が思い浮かぶ。

女や子どもは、台所で食事をしていた。いわゆる騒ぎ事(お祝いの席や見送りの席など)でも、お膳の席が用意されるのは、男性のみであり、女や子どもに席が与えられることはなかった。



・曾祖母・祖母・ねえさんのこと


-曾祖母の葬儀

曾祖母は家付き娘であり、家に貢献した人でした。曾祖母の葬儀は、曹洞宗に則り、きらびやかに、5名の僧侶がお経を唱えながら、曾祖母の棺の周りで舞い踊っていました。葬儀の後も1週間はお念仏で近所の方が集まり、お弔いのお念仏を上げていました。一大行事であり、女や子どもにもお膳が割り当てられました。曾祖母はそれだけの人物であったということである。


台所には竈があり、おかまでご飯を炊いていた。遠い記憶にあるトイレは、屋外で、夜のトイレは恐怖であった。お風呂も薪をくべていた。火吹き棒があった。そんな台所、寒い暗い場所で男たちが飲み食べするご馳走とは異なるものを食べていた。しかしながら、その台所で食べた茄子漬や太陽のもとで熟したトマトの美味しかったことは鮮明に覚えている。


また、鶏も飼っていて、生みたての卵を食べていました。祖母は騒ぎ事である宴会の食事の後、その宴会に出されたご馳走である蟹の殻を刻んで、鶏に与えていました。今にして思えば、何て贅沢な時間だったのだろうと。

竈で炊いたご飯。

裏の前栽(せんざい)から収穫した新鮮な野菜。

生みたての卵、そして、手造りの味噌で作った味噌汁。


母の実家は農家で、米やスイカやたばこを作っていた。夏休みは田舎に帰っていた。小学校がすぐ近くで、そこでもよく遊んだものだ。今とは違いアスファルトでの舗装などなく土の道が続いていた。



-働き者の叔母の名前はねえさん・・・


白い麹菌、無添加の味噌。味噌玉を作っていた。面倒だなぁと思っていました。そのありがたさが分からない子どものさきこさん。


母の実家では、毎年、ヨモギを摘んで、草餅を作ってくれていました。たくさん届けてくれて、固くなったら網で焼いて食べました。お正月には餅つき。何だか、懐かしい。30畳の座敷。仏壇のある部屋で寝るのがとても怖かったけど、ご先祖さまあればこその今・・・。昔の田舎の農家のつくりなので、座敷は広いのに、個人の部屋、曾祖母の部屋、祖母の部屋、叔父叔母夫婦の部屋、子ども部屋が暗く寂しかった。


味噌づくりの場面で、叔父のお嫁さんである「ねえさん」若しくは「あね」と呼ばれていた叔母が思い出される。彼女はいつも「色の白いは七難隠すよねー」「さきこさんは、色白だから別嬪さんになるねー」と言ってくれた。どんな困難があったのかは計り知れないが、この「ねえさん」も後年自死した。とても優しい人で、いつも静かな笑顔でみんなを支えていた。厳しい曾祖母に、みんなに貶されている祖母にも使え、休む時間もない暮らしだったように思う。妻であり、母であり、重要な働き手であった。


病気だったのか、事前の兆候があったのかはさきこさんには分からない。ある日電話がありました。「ねえさんが行方不明」。えっ、何があったの。どうしたのと騒動になった。2日後くらいだったと思う。用水路で発見されたと。それも口を両手で覆っていたと。事実も理由も分かりません。でも、そんな形で伝わってきました。


叔母を見送る最期の枕元で、叔父は号泣していました。その泣き声は今でも耳に残っています。ねえさんに何があったのでしょうか。おばあちゃんも、ばーあちゃんも、ねえさんも、自分の名前で呼ばれたことはあるのでしょうか。私は、彼女たちの名前を思い出すことができなかった。おばあちゃんとばーあちゃんの名前はようやく思い出すことができました。おそらく正解だと思います。でも、ねえさんの名前は思い出すことができません。今では、叔父は再婚しているので、その名前が挙がることもない。


家族の中の役割でしか声をかけられない。唯一、病院、銀行などは個人名で呼ばれる。そして、最期の墓標も自分の名前は残らない。夫婦間でも、「おい、おまえ、あなた」など個人名で呼ばれないことが多い。個人としての人生はどこにあったのであろうか。


今、さきこさんの母は介護施設にいて、彼女の名前である「まさこさん」とみんなに呼んでもらっている。施設の職員に優しく接してもらっている。母は今が幸せなのではないかと思っている。まさこさんとして存在できている。妻でもなく、母でもなく、おばあちゃんでもなく、まさことしてそこに存在できる。母の92年の人生の最終章は優しさと暖かさに満ちた場所でと思っている。


そんなところにも、女性の人生の生きづらさがあるのではないかと思う。男性が仕事、女性は家庭。その棲み分けはなんなのだろうか。農家の嫁は、妻であり、母であり、介護要員であり、そして、重要な農作業の担い手でもある。何役もこなし、認められることもなく日々の忙しさに追われたままその人生を終わる。まして、跡取りを産めなかった。子どもは女の子二人。お婿さんを強く望んでいたが願い叶わず。ねえさんは自分の人生をどう捉えていたのでしょうか。そんな話もできないままのさよなら。勝手によくしゃべるさきこさんの話をいつも笑顔で聞いてくれていました。合掌。


竈のある台所は孤独な場所、家の北位置していた。そして、静かにお嫁さんたちの苦悩や時には涙を受留めていた。いまのアイランドキッチンとは違う昭和の台所の景色、昭和の人間関係があった。アイランドキッチンは、家の真ん中にあり、みんなが周りを囲み、楽しくクッキングしている。アイランドキッチンは家族の笑顔を産みだしている。



・姉のこと


振袖の写真を着て、おめかししている古い写真がある。姉は不貞腐れ、さきこさんは笑っている遠慮がちに。子の写真が姉とさきこさんの特色を表している。いつも我慢していることが人生だったから。この時も姉は機嫌が悪かったのだと思う。それを素直にありのままに表現できる人だった。


さきこさんは、自分が感じている生きづらさに気がつかないまま生きていました。人とうまく付き合えない。いつも単発で、継続できない。ある人から言われた辛辣な言葉を思い出す。彼女は言った。「とても気さくだから近づいていくとピシャと扉がしまる」と。

言われたときには気がつかなかった。自分のトラウマのこと。

もう一つの記憶がある。風邪を引いて病院に行った時の事。ある冬の日、外は冷たい風が吹き荒れていた。さきこさんは姉と一緒に、いつもの医院の待合室に座っていた。姉は鼻を赤くし、体を丸めて座っている。その顔には、具合の悪さと共に、機嫌の悪さがはっきりと浮かんでいた。

「早く終わってほしいな」と姉がぽつりとつぶやく。

さきこさんは姉の隣で微笑んでいた。風邪を引いているのはさきこさんも同じだが、姉ほど辛そうには見えなかった。むしろ、なんとか元気そうに見せようと努めていた。


やがて、診察の順番が回ってきた。医師は優しい笑顔でさきこさんたちを迎え入れた。診察室の温かさに、冷えた体が少しほっとした。

「さて、どちらから診察しようか」と医師が尋ねた。

「お姉ちゃんからでいいよ」とさきこさんは言った。

姉が診察台に座り、医師が丁寧に診察を始める。熱を測り、喉を見て、胸の音を聞く。姉の表情はどんどん曇っていった。

「うーん、風邪ですね。少し熱があります。しっかり休んでくださいね」と医師が言うと、姉は軽くうなずいて診察台を降りた。


次はさきこさんの番だった。医師はさきこさんの顔を見て、にっこりと微笑んだ。さきこさんもそれに応じて笑顔を返した。

「それじゃあ、君も診てみようか」と医師が言い、さきこさんは診察台に座った。

熱を測り、喉を見て、胸の音を聞く。医師の表情が少し変わった。


「あら、妹さんの方が熱も高いし、大丈夫? こんなに元気そうにしているけれど、かなり辛いはずですよ」と医師が心配そうに言った。


その言葉が、さきこさんの心に深く響いた。いつも我慢して、笑顔を絶やさないようにしていた。初めて誰かに心配されたような気がした。さきこさんの目に一瞬涙が浮かんだが、すぐに笑顔に戻った。

そして、すぐに「大丈夫です」と答えた。


医師は優しくうなずき、風邪薬を処方してくれた。診察が終わると、さきこさんは姉と一緒に医院を出た。外の冷たい風が顔に当たるが、その時のさきこさんは少しだけ心が温かかった。


家に帰る途中、姉がふとつぶやいた。「あんた、本当に辛くないの?」

さきこさんは少し驚いて姉の顔を見た。姉の目には、心配と共感の色が見えた。


「うん、大丈夫」と微笑んで答えた。

それでも、その日からさきこさんの中で少しずつ変化が起き始めた。自分の気持ちをもっと大切にしようと思った。辛いときには辛いと言ってもいいんだと。そんな思い出が、冬の冷たい風と共に心に刻まれた。



・母のこと


-年とともにだんだん母に似てくるさきこさん


さきこさんは思っていた。「なぜ、私はこんなに気持ちにアップダウンがあるのか」それは母の性格を受け継いでいるからだと。



-朝の憂鬱


日の光が薄雲を通して差し込む朝、さきこさんはキッチンの焦げ付いた鍋を見つめていた。まだ冷め切らない鍋底からは、焦げた匂いが漂っている。その匂いが、さきこさんを遠い過去へと引き戻す。


さきこさんの母、まさこは家事が苦手だった。掃除も料理も苦手で、家の中は常に散らかっていた。さきこさんはそんな母が嫌いだった。特に鍋を焦がすたびに家中に広がる焦げ臭さが、何よりも嫌だった。まさこそれを気に留めることなく、「まあ、仕方ないわね」と笑っていた。


「私は絶対にこんな風にはならない」とさきこさんは心に誓った。


しかし今朝、さきこさんはその母の姿と重なる自分を見てしまった。焦げた鍋を前に、嫌いだったはずの母の生き方を自分もしていることに気づいてしまったのだ。さきこさんは深いため息をつき、キッチンのテーブルに座り込んだ。


幼い頃の記憶がよみがえる。母が掃除をしないために、家はゴミ屋敷のようになっていた。さきこさんはそんな環境が嫌でたまらなかった。部屋の隅に積み上がる古新聞や、食卓に散乱する食器。そのすべてが、母の怠慢を物語っていた。さきこさんはそれを見て、心の中で母を非難していた。


「私も結局、同じなんだ」とさきこさんは思った。母を否定し、自分は違うと信じていたのに、気づけば同じ道を歩んでいる。これは運命なのか、それともただの怠慢なのか。さきこさんは頭を抱えた。


その時、スマホの通知音が鳴った。友人のゆみこさんからのメッセージだった。「今朝の天気がすごく気持ちいいよ。一緒に散歩しない」と書かれていた。

さきこさんはしばらくそのメッセージを見つめていたが、やがて立ち上がった。キッチンの窓を開けると、爽やかな風が部屋に入り込んできた。さきこさんは深呼吸をし、焦げた鍋のことは一旦忘れることにした。母との過去は変えられないが、自分の未来は変えられるはずだ。


さきこさんは軽く身支度を整え、家を出た。外の世界はいつもと変わらない、穏やかな朝だった。まさこさんと合流し、二人は並んで歩き出した。さきこさんは心の中で、小さな決意をした。母のようにはならない、そう強く思いながら。


歩きながら、さきこさんはふと気づいた。母が怠けていたのではなく、自分なりの生き方をしていただけなのかもしれない。自分も母の一部を受け継いでいるのなら、それを受け入れ、自分らしい生き方を見つけることが大切だと。

朝の光がさきこさんの顔を照らし、彼女は新たな一歩を踏み出した。



・父のこと


-小学校時代の家庭科の課題


他のみんなとは違う小さな平屋の家。台所とお風呂場と四畳半と六畳の二間の家。そんな家を用途別に色分けしましょうというような課題だった。「廊下?」うちに廊下なんてあったかなぁと。

玄関のタタキを兼ねるトイレに繋がる廊下もどきを廊下と書いていた。

何だか、悲しく情けない気分になった。たまに遊びに行く友人の家やお隣のそろばん塾の家は、大きく、2階建てだった。


-そろばん塾のこと、父は教育パパだった

父は6年前に亡くなった。

父が私さきこさんや40年前に自死した姉の子どもの頃に、教育が大事と教えてくれました。

父は、私の祖父にあたる自分の父親が戦死したので、進学することができず、尋常小学校しか出ていません。そして、大工として弟子入りしました。

努力の人で、一生懸命勉強して、資格を取っていました。、いろいろな資格の合格証が茶の間の鴨居にぐるりと飾られていた。大学を卒業した人にも負けないくらいの知識がありました。最後は大手ゼネコンに職を得て、仕事を任されていました。


でも、そろばんも一級までは合格していなくて、2級まで。
いつも、2番手止まりのさきこさんです。そんな思いも自分を一歩引いた存在にしていると思う。

さきこさんは、父親の影響をとても受けている。厳しかった父。お祭りの屋台のものを買ってもらったことはない。唯一、買ってくれたのは、ピンクの綿飴だけ。
「綿飴はお砂糖だけだから、安心だ」と言い、他の屋台の食べ物は一切禁止されていました。

頑固で、偏屈な父でしたが、その生き様は、家族にとって誇りであり、さきこさんにとっては常に目標となるものでした。父親の影響とその努力の姿勢が、さきこさんの人生に大きな影響を与え続けていたのです。

小さな時にそろばんを仕込んでもらえたことが、今の私の仕事につながっています。私は税理士です。資格取得までの道のりは後ほど書きたいと思います。



-小学館の世界少年少女文学全集


この本を小学校4年生のときの担任の先生が給食の時読んでくれた

わが家にも父が買ってくれていて、同じ全集が毎月届けられていた。


小学校4年生のときの担任の先生は、いつも給食の時間になると、クラス全員がワクワクしながら席についた。なぜなら、その時間になると先生はいつも新しい物語を読んでくれたからだ。


その日も、給食の時間がやってきた。生徒たちは興奮しながら先生の話を聞く準備をしていた。そして、先生が教室に入ってくると、みんなは静かになった。

「今日の物語は『怪盗ルパン』だよ」と先生が言った。その言葉を聞いた生徒たちは歓声を上げた。『怪盗ルパン』はみんなの大好きな物語だったからだ。


先生が物語を読み始めると、クラスの中にはドキドキする雰囲気が広がった。みんなはルパンの大胆な活躍や、その驚くべき計画に夢中になっていた。給食の時間が終わる頃には、みんなは次の展開が気になって仕方がなかった。


授業が終わり、家に帰ると、同じ物語の全集が待っていた。家族と一緒に夕食を取りながら、その日の話をしながら『怪盗ルパン』を読むのが日課になっていた。毎月届く新しい巻数が待ち遠しく、家族でその展開を予想しながら、次の巻を楽しみにしていた。


その先生のおかげで、『怪盗ルパン』は生徒たちの心に深く刻まれた。彼らは物語の中の冒険に夢中になり、想像力をかきたてられた。その先生は、彼らにとって忘れられない存在となり、物語の中の世界を彩る大切な一部として生き続けるのだった。


読書の楽しみを教えてもらいました。さきこさんは、いろいろ振り返りながら物語を作成しています。その中で父の影響の大きさ、父の愛の深さに出会っている。さきこさんは、この読書により物語を作成する上での原点となっている。



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