1週間前とある人と会えなくなった。 その人が海外に行くからだ。 すごく面白くて、一緒にいて楽しくて、気を使わずに話せる数少ない一人だった。 冗談抜きで僕はこの1週間ロクに飯を食えなかった。 食べると吐きそうになった。 もうずっと寂しさがつきまとっている。 その寂しさが原因でずっと心ここにあらずの状態だ。 僕はなぜこんなにも繊細なのだろうか。 幾億と問い続けた問いが頭をもたげた。 人との別れに僕はいつまでたっても慣れることができない。 何度涙を流してもやっぱり慣れない。
先日知り合いとご飯に行き、知り合いがボソリとつぶやいた。 「でも、私今後大丈夫なのかな。」 この知り合いは、フリーランスで仕事をしていてマジで世界中旅をしまくってどこでも仕事をしている人だ。 まさに僕の憧れの1人だ。 この言葉を聞いた時、ああこの人でも大丈夫かなとか思うんだなと意外だった。 この場では「大丈夫でしょ」と言ったが、考えしいの僕はこのご飯の夜家で悶々と、「そうは言っても俺の方が全然今後大丈夫なのか?って状態だけどな」と考え始めた。 そもそも僕にとっての『
僕は高校2年の時からひきこもり学校に行かなくなった。 この間僕はネットでお笑い芸人のネタをたくさん見ていた。 お笑いに救われたと言っても過言ではない。 だから自然と「お笑い芸人になってみたい」と思うのも不思議ではない。 特に漫才師やコント師のようにネタをする人になってみたかった。 ピン芸人ではなくコンビとして。またはトリオとして。 だが人間関係も大きな原因の一つとして引きこもった僕にとって、お笑いの世界の密な?人間関係の世界に自分が飛び込めるはずもないと思い結局大学に進学
今日会社の飲み会があった。 今の会社に入って2度目の飲み会だ。 気心知れた人以外とする飲み会はいつも疲れてしまう。 いや、楽しいのは楽しい。 だけどほぼ間違いなく家に帰ると絶賛自己嫌悪タイムが始まってしまう。 なぜひっきりなしに話せる人がいるのだろうか。 なぜアルコールが美味しいと感じられるのだろうか。 生粋の陰キャで、真っ当に生きるために哲学の本ばかりを読んできた僕にとって、人生をノリと感覚でエンジョイしている、哲学の本なんて1mmも生きていく上で関わったこともない人
知り合いと和歌山の白浜ってところに旅行に来ました。 いや、海綺麗すぎるだろ! こんな真っ青な海なかなかねぇぞ😆 自然は自分の生きづらさを矮小化してくれるから、それだけでも触れ合う価値はあると思う。 自分の悩みのちっぽさにもっと気づかせて欲しいな。 ありがとう。
最近、仕事中や、家事中に、このことnoteに書きたいなと思ってもいざ書き出してみると全然書きたいことが出てこない。 やっぱり内面的なことを言語化していくよりも、自分が経験した外部のことをもとに文章を組み立てていく方が簡単なんだな。
仕事の昼休憩のランチをどこで食べるかすごく悩む。 静かなところで食べたいんだけど本当にそういう場所がない。 働き方改革(少し古い?)を考えるならランチの食べ先ってのもいれといてくれたら助かります。 おそらくこう思ってるの僕だけでは絶対ないので。 よろしくお願いします。
毎年4/1にいい思い出はなかったが、今年は人生レベルでかなりいい4/1なんじゃないかと感じることがあって。 ほんとちょっとずつちょっとずつだけど人生が良くなってきてる気がする。 エイプリールフールなんかじゃない、ガチだ。 緊張も、怖さもあるけど、歩いてくしかねえなあ。
付き合ってはないけど、割と頻繁にご飯に行ったり、遊びに行ったりする女性がいた。 いた、と過去形なのは昨日電話で「彼氏ができたらもう会わない」と告げられた。 「あー、わかった。楽しんでね。」とだけ伝え電話を切った。 付き合ってない手前モヤモヤするのもおかしいんだけど、昨日の僕はこの感覚ってどこかでずっと感じてたなと思った。 その感覚が何か電話終わり皿洗いをしながら思いを巡らせた。 そうだ「就活」だ。 書類審査も面接もどれも調子よく行ってて、だけど結果最後ダメだった。 その
今日をもって仲良くしてくれていた先輩が退職した。 表面では笑顔で見送ったが、内心は泣きそうだった。 障害者雇用で働いて、雑用ばかりの毎日で、他の人たちのように出世とかない環境で、なんなら仕事中ずっと誰にも喋りかけられないこともしょっちゅうで。 だけどこの先輩だけは僕のことを気にかけてくれて「頑張ってるね」、「よくやってるよ」、「無理しないでね」と優しい言葉をたくさんかけてくれた。 それ以外にもたくさん親切にしてもらった。 先輩は3月に入って、僕とたまたま2人で話す機会の
「わかってもらえない!わかってほしい!」をどうやって諦めればいいのか。 踏ん切りはつかない。 踏ん切りはつかないが生きていくためにはこの思考に囚われているわけにもいかないので懸命の体を動かし、目の前のやることに没頭しています。
自分が何をしているときに楽しいと感じるかわからない。 それは僕が今まで「得体の知れない何か」を言い訳にいろんなことから逃げてきたツケだと思っている。 自分が何を楽しいと感じるかは、やってみないとわからない。 特に大人になってからはそうだ。 自分の好きに冷笑や、罵詈雑言を浴びせてくる人もいる。 そんな人たちを気にして、自分の好きを見つけられなくなっては自分の人生がどんどんつまらなくなる気がした。 年中のイベント、派手やかな場所、たくさんの人が集まるところ、そう言ったところ
ただ生きるということが、どうしようもなく恐かった。 なぜこんなにも恐いのか。 わからない。 不安は突けば突くほど深みにはまる底なし沼だ。 これ、あれだな、さっさと不安からクラッチ切って、目の前のことに集中しろってサインだな。 恐さは無くならないが、共存はできると思う。思いたい。
自分の母親は完全な毒親でもない。 しかし子どもに理解を示す母親でもなかった。 決していい母親でない。 トラウマもたくさん抱えてしまった。 わかってもらったことなんてない。 だけど絶対的な悪親でもない。 なんと自分の母親を形容していいかわからない気味のわるさがある。 難しい。
ずっと母親に自分のことをわかってもらいたかった。 受け入れてもらいたかった。認めてもらいたかった。 でもそれは無理だった。 諦めてるつもりでも、ずっとわかってほしいが残ってるってことはまだ諦められてないんだろうな。 母の幾億をこえる心無い言葉を受け続けなければいけない現実。
周りの友達、知り合いの多くが自分のやりたいことをどんどん形にしていっている。 自分のやりたいことをきちんと形にできていけているそのエネルギーに僕はもはや尊敬の念すら持っている。 比べても仕方ない。わかってる。 でも比べてしまう。それもわかってる。 比べながら、比べないように。