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借金1千万から10億円企業を作るまで(随時追記中)

自己紹介&このnoteについて

Twitter上では「いけぞー」として運用しています。

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今はEC業界のインフラを作るべく、複数の会社運営に携わっています。

個人的にメインで動かしているのが物流の会社なので、
その会社を如何に借金まみれの状態から10億円まで持っていったのか?

また、企業が成長していく過程でよく言われる
「1億の壁」
「3億の壁」
「5億の壁」
「10億の壁」
そして、まだ自社でも到達していない「30億の壁」について
その時々で自社に起こった現象とともに各ステージごとに振り返ってみたいと思う。

ちょうど、Twitterを始めてから物販をやっている人たちとの絡みが増えてきたので経営塾もスタートしています。そこで出た質問とかも随時追記していこう。
※経営塾は不定期募集です。興味ある方はDMください。

ちなみに物流の会社はこちら。
HP改修が間に合ってないけど、現在はD2Cの発送代行がメインでやってます。

他の事業の話も書き進めていく中で出てくるとは思いますが、主はこちらの会社のお話です。

まずは会社の沿革

2014年9月
埼玉県草加市瀬崎にネット通販業界に特化した物流事業を主業務として、合同会社黒船を設立

2015年9月
埼玉県草加市瀬崎にて新倉庫の稼働開始し本社移転

2016年7月
神奈川県川崎市川崎区に海外エンドユーザー発送のサービス拠点を開設

2019年5月
埼玉県草加市弁天に通信販売の単品通販・定期通販に特化した物流拠点を開設

2019年7月
弁天拠点にて効率化の為、自動梱包機械(PAS-Line)を導入し運用を開始

2020年6月
福井県福井市今市町にクラウドファンディング等でのスポット発送に特化した600坪の物流拠点を開設

2020年7月
通信販売の単品通販・定期通販の大量発送に対応した自動梱包機械(PAS-Line)の2台目を導入し運用を開始

2021年10月
福井県鯖江市鳥羽町に通信販売の単品通販・定期通販に特化した1500坪の物流拠点を開設

こー見ると物流だけでも色々とやってきたんだなと感慨深くなりますね。


これが最新の倉庫。中学校と間違われます。

現状

9期目です。
7期の決算で売上高10億円を物流事業単体で達成しました。
グループ全体あわせると少し増えます。

周辺事業として複数の会社、事業を行っており大きな柱としては3つ。
・物販事業
・スクール、コンサルティング事業
・物流事業

となっています。

物販事業と一言で言っても幅広く
・ス〇バと同じ工場で作った抹茶ラテをアメリカで販売
・メーカーから仕入れた商品の卸、小売販売
・海外メーカーの総代理店となり日本での独占販売
・自社ブランドを構築して研究開発からの販売
・インフルエンサー(youtube含む)との協業販売
・日本で1社だけのairpods修理代行サービス
などをやっています。

スクール、コンサルティング事業に関しても
・OEMを0から教えるスクール
・経営力向上のための経営塾
・主婦の方向けのデザイン講座
・Lステップ構築などの支援サービス
など多岐に渡ります。

そのあたりは別の機会があればnote書きますね。


そろそろ本題に入りましょうか。

生まれてから黒船設立前まで

ここはあまりビジネスに関係ないところなので、さらーっといきましょう。

■生まれてから中学生まで

東京生まれ、東京育ち。第三北品川病院にて産声をあげました。
上に2人の兄がおり、騒がしい5人家族で暮らしていました。

子供のころは引っ込み思案だったようで、親戚のオジたちにはよく「お母さんの後ろに隠れていた」とか言われます。単純にお母さんがメッチャしゃべる人だったのでしゃべる隙がなかっただけかもしれません。

小学校に入るころにはそんな雰囲気はなくなりゴリゴリにしゃべるようになります。当時から知的好奇心だけで生きてきたようなものなので、沢山の質問をしては大人を困らせていました。お金に関しては興味がなくお年玉ですらもらったら貯金箱に入れるなりして使うことはなかったです。

それを知ってか知らずか、兄貴から「お年玉使ってないでしょ?ちょっと貸してよ。来年のお年玉で倍にして返すから」と誘われたのが人生初めての投資に騙された経験です笑

このあたりからビジネスとまではいかないけど、どうやったら最大限の効果を最小の労力で獲得できるのか?を常に考えていた気がします。

リスクとリターンの関係性を身をもって実体験で理解しました。

当時は遊戯王がジャンプで連載し始めたくらいで、遊戯王のカードゲームが流行ってました。んで、カードショップの店員さんと仲良くなってゴミカードを無料でもらっておき、駄菓子屋さんで友人が買ったお菓子と交換するという縄文時代ばりの物々交換がビジネスの原点ですね。

中学校はみんなと同じがなんとなく嫌だったので、私立を受験しました。カッコつけたかったのでレベルの低い学校に入って「特待生」として迎え入れてもらうという選択をしました。もともとは女子高だったので沢山の女子に囲まれたワクワクのキャンパスライフが始まるかと思ったら、まさかのクラスの8割が男子。。。
中学受験をする層は男子が圧倒的比率を超えていることを知らなかった僕はガクッと肩を落とし、ちょうど流行っていたスラムダンクの影響でバスケ部の活動にのめり込んでいくのであった。

事前に調べておけば、実際には女子がどれくらいいるのか?などはすぐに分かったはず。思い込みだけで決めつけてしまうと痛い目を見るという。

ここでも「事前リサーチの重要性」を身をもって痛感しました。

■高校生から留学まで

そんなこんなで、中学も卒業し高校へ。中高一貫だったのでそのままエスカレーターです。刺激も少なくなってダラダラと過ごしていたら突然の情報で頭をぶん殴られた。

特待生仲間だったYくんがなんと、、、アメリカに留学するという。
それまでちっぽけな世界しか見えてなかった俺はちょっとの間、思考停止した後になんか分からないけど悔しくなった。

家族や彼女、友達とも離れ離れになってしまうのは分かってたけど、さっさと後を追いたいと思った。んで、すぐに自分で調べるとアメリカ留学は間に合わないけどオーストラリアなら行けることが判明。資料請求してから親に相談。親もたぶん色々と思うところはあったはずだが表面上は賛成してくれてすぐに申し込んだ。

結局、出発は高校1年生時の1月に決まった。丸1年の留学生活が始まる。

人生、即行動即決断が大事というが正にだった。
ここで躊躇していたら申込期限も過ぎてしまい、留学の話自体立ち消えになってしまったかもしれない。

まず行動、そしてそのあとに考える。という思考が身に付いた。
「構え、狙え、打て」ではなく「構え、打て、狙え」ですね。

あ、その前にビジネスの考え方を得たイベントが1つあったので振り返ろうと思う。留学に行くちょっと前の文化祭だ。

行ってた高校の文化祭はちょっと特殊でやることが決められていた。
1,3,5年生は教室での研究展示
2,4,6年生はお化け屋敷や模擬店などのイベント
(1-3年は中学生、4-6年は高校生)

その時は高1なので4年生。よっしゃ!模擬店だ!と意気揚々と準備に取り掛かろうと思ったら担任から呼び出しが。そんな怒られることはしていないはずだけど??と思いながら職員室に行くと「模擬店の希望が6年生から多数来たから4年のお前は諦めてくれないか?お前には再来年もあるだろう」との説得。でも、もうやる気満々の俺はバレないようにバスケ部6年の先輩の所に行って「模擬店だとキッチンと販売で別々になっちゃうから、最後の文化祭ではクラス全員でやれる劇とかどうですか?」と逆説得。
先輩も納得して無事に模擬店をやることが出来ました。
ちなみに劇は大成功で感動の嵐だったようで良かった。

ここで「あきらめない気持ち」と「相手にもメリットを明確に提示すれば人を動かせる」ということを学びました。

自己主張を通しつつも、相手との共存関係を育むの大事。

あ、ちなみに
文化祭の模擬店は「ちょこばなな」やりました!

もう具体的な数字は覚えてないけど、打ち上げでクラスのメンバーと遊びにいける以上のお金は儲けました。(学校の先生、すいませんw)

いま思い返すと、いろいろなマーケテクニックを使っていた気がします。
いくつか紹介すると

①チョコバナナを全部チョコに付けるんじゃなくてお好み焼きのマヨネーズのように斜線にかけることによりオシャレさUP&原価削減。
②2本セット&豊富なトッピング用意により客単価UP
③人気者の先輩に友達つれてきたらサービスつけると促す
④あえて店前に混雑を作り、流行っている感をだす
⑤試食でちょろっと食べさせる。
⑥金主を狙う(カップルの彼氏とか、親とかw)

こんなところでも、色々なビジネス的な経験を積みながらクラスどころか学年全体を巻き込んでゴールを目指すところの楽しさも実感しましたね。

たかが模擬店なので失敗しても1円も損しないし、人件費もかからない。
いま思うと正に「ノーリスク、ハイリターン」でした。

そんなこんなで、オーストラリアに旅立つ日がやってきました。

■留学中から帰国するまで

さぁ、いよいよ旅立ちです。この日ばかりは仲の悪かった兄たちもお見送りに来てくれて1年間の孤独な旅が始まりました。別れた瞬間は大丈夫だったけど、時間が経つにつれて少しずつ不安になってくる自分がいてw

まず、そもそもで飛行機にも乗ったことないのに片道12時間の空旅からのスタート。しかも当然だけど、エコノミークラス。リクライニングも出来ない最後部の席だったので直角になりながら寝ました。15歳の身体だから出来たけど今は無理だろうな。

飛び込んでしまえば、なんとかなる。
そして、飛び込むなら若い時の方が良い。
こんな当たり前のことだけど行動できない人が多い。その他大勢と同じことをやってたって意味ない。ただのモブになりたくなければ飛び込もう。

オーストラリア着いて、最初の関門といったら「イミグレーション」ですよね。よく映画とかでは「sightseeing」とか言って華麗に通過するやつ。こちとら大パニックですよ。初めての飛行機、初めての海外、初めての黒人さんに助けのない環境。もはや、どうイミグレを通過したのかも覚えてない中で現地のコーディネーターさんがお迎えに来てくれてました。

コーディネーターさんの車で1時間くらい走ったところで遂に、ホストファミリーの家に到着。家の目の前がビーチの最高の家!!あれは良かったなー、、、懐かしい。

で、奥さんと3人兄弟の一番下の子が迎えてくれて、
(他の家族はみんな仕事や学校に行ってた)
いざ、用意してきた英語でのご挨拶を喋ろうとしたんだけど。。。

マージでなんも出てこないw
せっかく沢山のお土産も持ってきてたのに「present」も「gift」もでてこず、お土産を相手の胸に突き付けながら無言の時が流れていった。

完全に頭ん中が真っ白になってたんだろうね。幸い、奥さんが助け舟で
「Gift??」って聞いてくれたからギリセーフ。なんとかお土産を渡せたよ。

で、家族みんな帰ってきてウェルカムパーティー開いてくれたんだけど、そこでもまた喋れずwww
ちょろっと話せるようにはなってきたけど、100回くらい聞き直してたんじゃないかな?ゆーっくり、丁寧に、はっきり喋ってもらって理解してた。

人って優しいよね。国も関係なければ性別も年齢も関係ない。単純に人対人の関係なんだと気付いたね。こっちが困っていたら助けてくれる。だから人が困ってたら助けようと身に染みた。

3ヶ月もすると夢も英語で見るようになり、早口のニュース番組とかは理解できなかったけど特に生活に困ることはなくなりました。
朝は陽の光で目覚め、家族で朝ご飯を食べ、学校に向かい、友達と遊んで、海に行ったり、ギター弾いたり、沢山のことをしました。あ、ちなみにオーストラリアでは高校生でも2次方程式とかだったので数学は無双できます。めっちゃ女の子たちからモテました。出木杉君でした。

あと、最高だったのがだれも否定しない。茶化す、イジるはあるけれども
どんなに下手糞な英語だろうがちゃんと聞いてくれるし、
分からない単語はボディラングエージで教えてくれるし、
人の良いところしか見ていない国民性だった。マジ最高。

プラス思考をここでマジで落とし込んだ。基本的に楽観的で前向きで楽しみたい気質なんだけど、ここで醸成されたのかな?と
なにやってても楽しくなれるのは人生で最高なことだと思う。

一言でいうとオーストラリアではたくさんの固定概念が崩されましたね。
向こうの高校にも通ってたんだけど、いろんな人種の方もいてブラジル人も同じタイミングで留学来てたし
凄い良くしてくれたSamとかはまさかのお父さんの再婚相手が日本人だったし、一番仲良くなったのはKongでタイ人の大富豪だったw

そのまま、留学終了時にはそのメンバーでオーストラリア→日本に帰国&観光→タイという弾丸ツアーをやったのは今でも良い思い出。
Kongのお父さんは富豪だったから、タイにリゾート島を持っていて宿泊費から食事、アクティビティとかも全部無料でやってくれた。あとで知ったけどオーナーさんだった。

オーストラリアの話は多すぎて、書ききれないかな。要望あったら追加していくけど。ということで、タイ経由で日本に帰ってきました!

■帰国から大学中退まで

1年間の旅を終えて、やっと帰国したわけですよ。楽しかった思い出を噛みしめながら段々と日本に染まりなおしていきました。でも、変わったのは中身だけだったようで日本の友達からは1年たっても何も変化ない。と言われまくった。残念である。

ちなみに、英語は5年間くらいは喋れたけど、それ以降はマジで喋れんくなった。みんな気を付けた方が良いよ。体験を沢山して成長したところはめっちゃ有難いけど、英語力だけは消えた。。

オーストラリアだけじゃなく日本でも青春ってもんを楽しみたかった僕はせっかくだからバスケ部に戻って漫画のような青春を!!と思った。
中学の時はキャプテンもやってたし、高一の大会でも3年生に混じって出場させてもらったので1年のブランクなんて余裕で取り戻して即レギュラー入りだ!!!と意気込んでた訳ですよ。

だがしかし、、、1学年ズレると大会に出れなくなっちゃうんですよ。
つまり、どんだけ頑張って練習してもベンチにすら入れず応援しかできないというモブ青春。いや、いいんですよ。全国大会とか目指している強豪校の応援団とかならまだ。地区大会で数回勝てるかレベルなのに絶対に公式戦に出られないという地獄。すぱっとバスケ部に戻ることを諦めました。

ルールはルール。それを破ってまで突き進むことは出来ない。あきらめも肝心ということを理解して、ルールの中でいかに最大の成果をだすのか?と思考するようになった。

そこからは時給の高さに負けて応募したファミレスでバイト漬けの日々を過ごしていた。幸いにもお台場で働いていたので周りに同じ学年とかいなくて、大人(大学生とかフリーター)の人たちに囲まれて生活していた。

そして、いつも通りの調子で過ごしていたら別に上下関係とかもない間柄になり店長や料理長、ひいては本部の人たちとまで仲良くなりました。

そうなってくると面白いもので、当時から既に高校で周りと会話が合わなくなってくるんですよね笑

金銭面でもそうだし、人間性の部分でもそうだし、対人関係の部分でもそうだった。
ここは失敗だったなーとも今振り返ると思う。たった3年間しかないんだからトコトンまで遊び倒してやればよかった。ちなみに後述するがこの時は「大学に入ってから遊べばいいや」と思っていたが、大学も入学から半年でツマらなくて辞めてしまう。

たぶんだけど、トコトン遊び倒すって言っても飽き性だから遊べないんでしょうね。
今の「仕事と遊びが一緒」みたいな環境が性に合ってます。

最近は減ってきたけど、一時期は「好きなことを仕事に!」みたいな風潮があった。でも、好きなことを仕事にするんではなくて、達成感あることを仕事にした方が良いと思うよ。

残りの高校生活は、もう一回だけ文化祭で前回の反省点も含めて「焼きおにぎり」を模擬店で売り出したこと以外は特筆すべき点もなく終了。
ちなみに「焼きおにぎり」は非公式ながら過去最高売上と過去最高利益を作って担任まで飲み会に誘い大成功を収めました。

大学受験もそこそこに、可愛い女の子が沢山いるという某大学に入学。初めの半年は楽しく過ごしていたんだけど、ふと気付いてしまった。

【よいところ】
可愛い女子と遊べる。。。
以上

【悪いところ】
座学中心で身に付いたと思ったものがない。
学校が遠い。電車で30分もかかっていた。
いらない授業も必修とかで取らされていた。
学費も高く奨学金が無駄に感じた。
高校と一緒で話が嚙み合わなくなっていたのが一番の要因かも。
以上

「これ、このまま大学にいても無意味じゃね?」と思い、在学中にいろいろとインターン?とか派遣社員登録とかして働いてみた。
そしたら、楽しいんですよね。その方が。

まぁ、大きな中退するタイミングのきっかけはあったにせよ
このような理由で大学はドロップアウトしてしまいました。

■大学中退から物販に出会うまで

大学を中退してから、というよりは在学中から色々なバイトに手を出していたので仕事には困りませんでした。

たくさんやったなー。
・飲食店
・催事場の設営
・太陽光設置の飛び込み営業
・明治牛乳の宅配飛び込み営業
・リクルートでの派遣営業

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