『軒の玉水』道元禅師(2)
聞くままに また心なき 身にしあらば
己れなりけり 軒の玉水
※(二言メモ)
数学者の岡潔先生が『数学する人生』の中で、問いかけられます。
「自分とは何でしょうか」。
「西洋人は「自分とはこのからだである」といっているのですが、それは「自我」が自分であるといっているのと同じことです」。「このからだ、この心が自分だと思うのは間違いで」、「本当の自分を仏教では「真我」あるいは「大我」といっています」。
また、道元禅師の『軒の玉水』を引用されて、
聞くままに また心なき 身にしあらば
己れなりけり 軒の玉水
「自分というのは、時と場合によってあるにはあるが、時と場合によって位置を変える。固定されていない」。
「自分を忘れて雨音を聞き入っていた」。「自分がそのものになる。なりきっているときは、わからない。が、われに返った瞬間に、自分がいままでなりきっていたそのものがよくわかる」
と説いておられます。
「玉水」になりきっているときは、わからない。わからない時こそ、そこに、一真実がある。天地「自分」ならざるものはない。
逆に「あぁ、これだ、己れだ」と意識したならば、その時そこにはもう、「自分」「主人公」はいない、のです。
「玉水」は逃げ水のごとく、万里も億里も遥かに隔たっているのです。
私たちに出来ることは、そう合点して、ただ坐わること。たとえ坐禅しなくても、素直に謙虚に真摯に、ただ「玉水」です。
そこから、なにか素晴らしいものにめぐり会える、動いていけると信じて。
ムーーーーーッ。
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