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人の数だけ「顔」があるし、あっていいって話

平野啓一郎氏の「私とは何か」を読む。

ここで分人という言葉を初めて目にした。概念を簡単に伝えるのは難しいが、いわゆる「その人」というものは接する相手によって変化し、その形は相手の数だけ無数に存在するが、それら一つひとつが嘘で作られてはいない自分自身なのだということらしい。

筆者は高校の時の自分と大学での自分との立ち振る舞いの違いを例にあげてるが、確かにそうだ。僕自身高校の友達と接する時と大学の友達と接する時は若干振る舞いに違いがある。ただどちらが自分かといわれると難しい。筆者はどちらも自分なのだと定義している。これはすごく大きな定義づけだと思う。

現代は個性や自分らしさというものが高らかに叫ばれている。しかし、個性ははみ出せば良いというものではない。真面目に生きること、コツコツやることだって大事なその人らしさだ。人にはそれぞれ色々な面があり、その人の前ではある一面が強く出る。ある意味さまざまな自分「らしさ」は色々な人と関われるから、曝け出せるのだ。

分人にはそんな「らしさ」を無限に広げる可能性がある。そして何より人の分だけ違う面が現れることは、相手によって態度を変えているとマイナスに考えるのではなく、それだけ相手のことを想って、相手に合わせているからだともいえる。

あいつ俺の前と違う奴の前だと全然キャラ違うやん。という違和感が良いものだと捉えられると良いなあなんて感じている。

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