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私の履歴書#5 浪人生

(2020年4月28日火曜日)

「花散る都留大」。
 浪人決定の電報に書かれていたのはこの一言。
 「大学時代こそは新潟の片田舎から雪けぶる越後山脈を乗り超えて東京に行くんだ」そんな熱意の炎を胸に、現役時代は東京の親戚の家に連泊し東京の大学だけを受けた。全て落ちた。最後の最後、全部落ちた後で山梨の都留文科大学の三月入試を受けた。新潟から山梨まで遠いから合格発表は見に行けない。当時は速達ではなく、電報だった。その電報で僕は都留文科大学に行くか浪人かが決まるのだ。そんな中で受け取った電報だった。“不合格”とは書かれていなかったが、その意味だ。田舎の六日町でそれを開き、少し固まった。花散ったんだな。少しして理解した。

 二階の自分の部屋に行って脱力した。親にどう伝えたかは覚えてない。それから「ああ、浪人なんだな」と現実を苦しく感じた。これから一年間どうしようかなと考え始めた。家から最も近い予備校は、(今はなき)新潟予備校の長岡校。家から駅まで歩いて20分、そこから電車で片道1時間という驚異の遠さ。1時間の電車通学は大したことがないように聞こえるが、首都圏とは違い、電車が1時間に一本しかない。一本逃すと1時間以上待たざるを得ないのはきつかった。長岡校に通っている地元の先輩もわずか。よって参考例が皆無。これからの1年間を真似するモデルがなかった。これから一年間どうなるんだろうという不安感と呆然とした感じ。三日間呆然と寝込んだ。「先が見えない」という感情を生まれて初めて経験した。それまで小学校、中学校、高校と“次”が常に意識されてきた。高校の後の同級生の進路も「就職、専門学校、大学」の三択。そのどれでもない“浪人”という道のりは宙ぶらりんの感情だった。自宅浪人は自分の実力上無理だと思った。ちゃんとした先生に習わなくちゃいけないな、と。電車で片道2時間半かけて新潟市まで行けば代々木ゼミナールがあった気がするが、往復5時間は現実的ではなかった。

 六日町からの電車は1時間に一本。予備校の場所は限られているから、浪人した高校の同級生数人とはほぼ毎朝同じ電車で揺られた。長岡は六日町から見たら都会だった。「都会に行って勉強する」という感覚で毎朝電車に乗った。また、長岡には新潟では屈指の進学校だった長岡高校があって、その学校の人たちと勉強するのだと身の引き締まる思いがした。

 新潟予備校のパンプレットの“超優秀な講師陣”という文字を見て「ようやくまともな先生に教えてもらえる」と期待した。すごい先生からまともな勉強が教えてもらえるという気持ちがあった。でも実際は、その”超優秀な講師陣”は東京の大手予備校に勤務している人で、その先生たちは通常授業ではわざわざ田舎の新潟はずもなかった。夏期講習に追加で受講料を出した人だけがパンフレットの売り“超優秀な講師陣”の授業を受けることができるシステムだった。あれはどう見ても詐欺まがいだと振り返って思う。
 
 実際には通常の授業は高校までの授業となんら変わらず。例えば僕が受けていた理科のある科目の授業では教員採用試験に落ちて浪人中の方が講師だった。
 当時の新潟はとにかく地元志向が強かった気がする(今はどうなのだろう)。予備校の先生も新潟大学至上主義の傾向が強く「新潟大学の入試問題を何回当てた」が、授業中の自慢話だった。先生たちの進路指導も、成績の良い学生には全力で新潟大学を勧めて予備校の合格実績に計上しようとした。僕も担任チューターに、ことあるごとに新潟大学の素晴らしさを聞かされた。 
 授業の内容も人気取りのようなもの。酷いものでは大半の時間は授業をせずにギャグをかましているような先生もいた。周りの生徒たちが楽しそうに笑っているのを醒めた目で見ていた記憶がある。両親には授業料でかなりの大金を払い込んでもらったはずで申し訳なかった。
 パンフレットの理想と実際の授業クオリティの低さに圧倒された。「チラシってすごいなぁ」と感心したのを今でも覚えているほどだ。チラシを見てお金を払ってしまう。チラシの内容だけで先取りして年間の授業料を一括して払い込んでしまうのだ。実際の授業を見ることなしに。お金を稼ぐ人ってこうやるのか、と。考えてみるとこれは今だって変わらない。ネットでイメージを見て先にお金を払い、実物は期待はずれのものが届くことがある。
 そういうのを初めて経験し、唖然とした。しかし、入ってしまったものはしょうがない。できる限りやるしかないと覚悟した。東大文系クラス、国立文系クラス、私大文系クラス、理系クラスが存在した。クラス選択のために調べてすぐわかったのは、この中から東大に合格する人はほとんどいないという現実。それでもまるで東大を目指せるかのように錯覚させるため、東大文系クラスと言っている。これも予備校のレベルを実際より高く誤認させるための宣伝だと思った。
 でも行くなら講師のレベルの一番高い、東大文系クラスしかないと思った。一番塾が力を入れて、講師の質が少しでも高いのはそこしかなかったのだ。目指してもいない東大文系クラスを選択した。
 
 そんな予備校の講師たちの中で一人だけすごい先生がいた。太庸吉という名の英語の先生だ。週一度だけ東京からやってきて授業を担当した。英文解釈の授業を受けて「これはすごい」と圧倒された。初回の授業、一言挨拶をしたと思ったら、そこからは、90分間ひたすら、猛烈な早口で英語を書きつつ英文の構造を緻密に分析していった。「イカれた」教師だと思った。教師像を根本から覆された瞬間だった。“東大クラス”など名前だけの、雪ふぶく片田舎の教室を担当する講師陣の中で彼だけは“本気”で東大に受からせる気で授業をしていた気がする。どれくらいの人がその怒涛のスピードの授業についていけていたかわからないが、僕は食らいつくように必死に授業についていった。最前列のど真ん中の席で目をギラギラさせてペンを走らせていたように思う。太庸吉の熱狂ファンになった。弟子入りしたいと思った。

 グリーン車で新潟に毎週通う太先生は僕のヒーローとなった。僕は授業が終わると講師室に押しかけて太先生のところに質問ぜめ。そんな食い気味な生徒を面白いと思ってくれたのか、気がついたら夜ごはんに誘われ一緒に食べるようになった。新潟の酒のファンで未成年の僕にお酒までご馳走してくれた(そういう時代だった)。太先生は翻訳家でもあった。翻訳した本も見せてもらった。外国も行きたかったし、外国につながるものが全てかっこよく見えていた。太先生に憧れていた当時の僕の、憧れの職業の一つが翻訳家だったが、「翻訳家とは儲からない商売ですよ」、と太先生はこぼしていた(その僕が後に翻訳を手掛けることになるとは・・・)。
 とにかく私の教え方は邪道です、と言っていた。実際、論理的で緻密な彼の講義を聞いていると、まるで数学を教わっている気分にすらなった。しかし本人が“邪道”と卑下しようが、彼の教え方は卓越していた。その後およそ30年が経過したが現在彼は駿台予備校や河合塾のトップ講師を歴任している。

 受験のための無味乾燥な暗記が多かった予備校生活で、太先生の授業だけは知的好奇心を掻き立てられた。テキストの英文と格闘している時も、受験勉強というよりむしろ英語を学問として学んでいるという実感が湧いた。太ワールドで英語に向かうと模擬テストさえも楽しく解けるようになった。特に国立二次試験の、構文も難解で学問的に練られた美文を読むのは楽しかった。ラッセルとかサマセット・モームとか。共通一次は学力というより、反射神経やテクニックを問われているようであまり好きになれなかったが、こちらの得点率も自然と向上した。英語の成績は果てしなく上がった。英語の記述試験だけならば、おそらく国内のどの大学にも受かっていた気がする。だが、、、この成績上昇は英語だけだった。

 国語は勉強すればするほどムカツいてきた。予備校の授業を受け、模試に挑み、復習を繰り返したが成績は微塵も上がらなかった。僕の成績推移をグラフにしたら、まるで心臓が止まった後の心電図のように見事に平行線だった。中学時代にスピーチコンテストでは文部大臣賞を獲得し天皇、皇后とも面談したくらいだ。文章を書くのは好きだったし、苦手意識も全くなかった。本もそこそこ読んだ。しかし、国語(特に小説)の成績が壊滅的だった。“傍線部の登場人物の心情を答えよ”と言う問題、熟考して選んだ答えをことごとく外した。「僕は人の気持ちがわからないのか」と頭を抱えた。

 数学に至っては偏差値30台だった。鉛筆を転がして模試を解いたのか、と首を傾げられる点数かもしれないが、僕はいたって真剣だった。浪人という都合上、親からは「国立しかダメだ」と言い渡されていた。国立合格のためには壊滅的な数学の点数をなんとかしなければならない。そんな成績のままゴールデンウィーク、夏期講習、ハロウィンと無情にも月日は過ぎ去っていよいよ11月。返って来た成績表には変わらない数学偏差値30代の文字。いよいよ“本格的にやばい”と頭を抱えた。
 数学の成績を上げるにはどうしたらいいか。真剣にウンウン唸って閃いた。「そうだ!光があるから集中できないんだ」。集中するためには参考書以外の余計な物が目に入ってはいけない。部屋を真っ暗にして机のライトだけつければ、自然とテキストのみが目に入る。電気を消しただけではカーテン越しに外の光が入ってくる。(黒い遮光カーテンを引けば別だが、当時そんなものの存在は知らなかった。)窓一面に新聞紙をベタベタ貼って、その上から服を何層にもガムテープで貼り重ねて完全に外から光を遮断した。丸一日がかり。
 「さあ集中するぞ」と朝から集中して、夕方。ご飯を呼びに来た母親は、真っ暗な部屋で一心不乱に机に向かう息子に唖然、何もコトバをかけずにドアを閉めた。「受験で追い詰められすぎている」母と父は真剣に相談。何も知らずに夕食を食べようと階下に降りて来た僕に「大丈夫か」と本気で心配された。余談だが、今の僕の仕事部屋のカーテンも暗幕である。

 数学が苦手な僕が応用問題まで背伸びする必要はない。できるだけ薄くて基礎問題だけを取り扱っている河合塾の共通一次対策の問題集をひたすら反復。同時に、数学の講師に「正答の選択肢は①が多いか、②の方が多いか」と、正当になりやすい選択肢の確率を聞いた。本番でわからない問題に直面しても一点でも多く奪取しようと必死だった。その時、藁をも掴む気持ちで頭に叩き込んだテクニックは今でもいくつか覚えている。例えば、「マイナスが来たら1が多い」とか。

 そんなこんなで迎えた共通一次。一日目の試験を終えた僕は、やってはいけない禁忌を犯した。試験二日目の早朝に届いた新聞の解答速報、前日の自己採点をしてしまったのだ。(都会など、受験のテクニックを教わっている受験生は二日間の共通一次の試験が終わるまで自己採点をするなと厳命されていることは後で知った。まだ試験が終わっていないのに、一日目の点数を知ってプレッシャーを感じてしまうからだ。)200点満点中、国語120点。国立大学に受かりに行くには心許ない。国語120点で国立大学を受験することの無謀さをドラクエの勇者に例えるなら、かろうじて剣を持っているが、盾も回復薬も鎧も持たずに魔王に特攻するが如くの無謀さだ。不可能ではないが限りなく苦しい。
 予想外の点数の低さで僕は呆然。その日外ではひどく雪が降り凍り付く寒さだったが、自己採点を終えた僕も凍りついていた。打開するには二日目にいい点を取るしかない。しかし、二日目の科目は理科と数学。偏差値30台を低迷していたあの数学だ。最悪の事態。プレッシャーに押しつぶされそうになった僕がさらなる致命的なミスを犯したのに気づいたのは試験場についてからだった。緊張のあまり鉛筆を忘れたのだ。鉛筆を忘れたことを申告したが、試験官はちらっとマニュアルに目を落とし一言、「規則では貸し出すことができません」。絶望しかけた。

 そんな時前の席に座っていた見知らぬ女子生徒が、予備の鉛筆を数本貸してくれた。あの時の感謝の気持ちは強く、貸してくれた相手の高校名まで鮮明に覚えている。超感謝。
 事件は続き数学の試験中。極度の緊張のせいか、僕の近くで受けていた級友の鼻から血が吹き出した。彼の手元の答案用紙は血液で真っ赤。試験官が慌てて駆け寄っていた気がするが、僕はそれどころじゃなかった。この数学の試験が国立合格の命運を握っているのだ。
 翌朝、恐る恐る採点。すると、なんと、人生最大の奇跡が起きた。数学で165点(200点中)を獲得。今までの成績の倍近い点数だった。いうまでもなく、自己最高点。何が起こったのか自分でもさっぱりわからない。これが火事場の馬鹿力というものか。国立出願に首の皮一枚繋がった。

 その後東京の親戚の家に連泊して、東京の私立大学を受験。詳細は省くが多くの受験生同様、いくつか合格しいくつかは落ちた。そんな中で僕の暮らしていた地域が受験の情報とは程遠いド田舎だったエピソードがある。マーチのMではじまる某大(文学部)と某学院大学(国際学部)に合格した。名前が似ていたので僕には区別がつかなかった。迷いなく某学院大学だけに入学金を払い込んだ。“マーチ”という大学群の呼称すら、東京経済大学に赴任してから知ったくらいだ。海外に興味があった僕は、“国際”という名称だけが判断基準だった。文学部は「シェイクスピアを読むところなのかな。興味ないな」と受験しておきながら一顧だにしなかった。
 入学金を払い込んだ後、太先生に報告した(たぶん電話だったと思う)。しばらく沈黙した後「随分勇気ある決断を下しましたね」。何を言っているのだろう、と偏差値や大学の規模などを調べて悟った、遅かった。あちゃーと思ったが、親にも何も言えなかった。

  
 小学生の時から変わらぬ僕の望み、「この山の向こうに行きたい」。その目標は東京の私立大学に合格した時点で達成していたが、両親は「国立しかダメだ」と一点張り。首都圏の主要な国公立に受かる模試の点数ではなかった。東京ではなかったら京都だ(笑)、と。京都の国立を一つ。もう一つは新潟予備校が猛プッシュしていた新潟大学を言われるがままに受けた。どちらも英語の勉強がしたかったがシェークスピアの訳読がいやという理由で文学部を避け、教育学部英語科を受験した。しかし、両大学ともかなりレベルが高い。「間違いなく落ちるだろう」と謎の確信をしていた。
 何しろ僕は東京の大学に行きたかったのだ。一通目の東京の私大の合格通知が届いた瞬間にほっと安堵して倒れこんだ。それまで勉強して来た緊張の糸が切れたかのように謎の高熱に丸一週間苦しんだ。国立受験は共通一次が終わった後からの勉強量が勝負だ。親は「何をしているんだ」とあきれていた。

 当時、新潟大学の合格発表は何と地元局でテレビ中継!合格発表当日。僕は二次試験の国語の異常な難しさから「どうせ落ちる」と確信に満ちていたので、寝そべってボーっとテレビを見ていた。一方、母親は緊張に耐えきれず美容院に行った(と後に聞いた)。突然テレビの僕の受験番号が呼ばれた。瞬間の心境は嬉しいより、「え、受かっちゃったよ」と吃驚。行く気は無かった。
 しばらくして母親が帰って来た。「受かった」と一言伝えた瞬間、母の目から涙がこぼれ落ち抱きしめられた。母からこれほどきつく抱きしめられたのは赤ん坊の時以来だろう。何よりも、こんな嬉しそうな母親の顔を見たのは久しぶりだった。あの状況で母に、「僕は東京に行く」と言い出すことなどできるはずもなかった。ということで新潟大学へ進学することが決まった。新潟大学教育学部中学校教員養成課程英語科。

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