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イタリア好きが留学に至るまで


イタリア語に惚れた

ちょい不良以前のジロ

イタリア語を勉強したいと思ったのは、高校生の頃。ジローラモ氏が陽気なイタリア人として、既に確立していた時代で、NHKの「イタリア語会話」は欠かさず見ていた。山口もえや、土屋アンナがアシスタントとして出演し、私もあそこに立ちたいとまで思った。後に、ジローラモ氏は雑誌『LEON』で表紙を毎号飾る人気モデルにもなってゆく。

彼が話す言葉がとてもリズミカルで、私も発してみたいと思わせるものだった。あの頃の知っていた単語と言えば、「ピッツァ、マッケローニ」などの食べ物はもちろん、車関係の「テスタロッサ、アウトストラーダ・デル・ソーレ」のほか、音楽用語の「グランディオーゾ、モデラート」などをよくそれらを並べて、イタリア語を喋っている風に楽しんでいた。



ヒデの魅惑

もう一人、イタリアブームを巻き起こした人がいる。イタリアでも有名になった日本人といえば、「中田英寿」だ。彼が1998年に、セリエAに入ることを、各メディアが大々的に取り上げられたことを今でも覚えている。
端正な顔立ちに、ずば抜けた才能は、サッカー好きではなくても惚れる人は多かっただろう。

イタリアでプレーして半年後、記者会見での姿に驚いた。堂々と記者陣の前でイタリア語で応えている!(Wikipediaによると、高校生の頃からセリエAに向け、イタリア語を勉強していたとか)
そんなこととは露知らず、短期間でそこまで身につけられるものかと驚いた。このことにより、私のイタリア語好きを加速させた。

弾むような言葉を聴くたびに、「胸がドキドキする!なんて美しい響きなんだ!ずっと聴いていたい!喋ってみたい!」と、周りに言わずにはいられなかった。


本から独学で



ついに、『イタリア語学習入門』の本を買う行動に出る。一人で学ぶんだ!と意気込んだ。

数字学習

まずは、数字の読み方。1〜10は、歩きながら練習しすぐに身につけた。次に挨拶「ボンジョールノ、ボナセーラ」、また会いましょうという「アリベデルチ」は難しかったので理解しないまま進んだ。簡単な自己紹介も学んだ。

短いフレーズ

次は、やっと文章に入る。「頭が痛い」「トイレはどこですか」「今日は天気がいいですね」という会話の基礎を発するのが楽しくて何度も言った。これは、使う度にあの頃の自分を思い出す。

名詞の迷路

だんだんレベルが上がるにつれ、私は混乱していく。単語のページに来ると、単数形と複数形で言葉が変わると書いていた。さらに、私を迷路に導いたのは「男性名詞・女性名詞」。なぜ単語なのに性別があるのかが分からなかった。

男性名詞
単数の場合語尾は「o」で終わり、
複数形は「i」に変換してされる。
一つのマリトッツォ maritizzoは、
二つ以上なら、maritozzi マリトッツィになる。

女性名詞
単数の場合語尾は「a」で終わり、
複数形は「e」に変換する。
ピッツァ 一枚なら pizza
二枚以上のなら pizze ピッツェとなる。

単語全てが男女に選別される。これが分かっているようで理解できない。じゃ、私は女だから、男性名詞は使えないの?と素朴な疑問を持ち始めた。調べようにも誰にも聴けない。当時のインターネットではそんなことを教えてくれるほど、イタリア語に関する情報は多くなかった。

疑問を解決できず、そこから本をたまに開いては、パラパラとめくる程度になっていった…


イタリア好きの行動


催し物


地元新聞の広告に、三越でイタリアフェアが開催される広告が入ると、それを大事に取っていた。少しでも、イタリアの空気を吸いたいがために行きたいと親にせがんだ。これはおそらく毎年開催されていて、大人になっても通った。

会場には、あらゆる食のブースがあり、有名シェフ監修や、話題のドルチェなど大半を占めていた。衣類や工芸品の展示販売も見ていて質の違いをまじまじと感じた。中でもベネチアングラスの美しさに魅了されて、何か欲しいと思ったが、とても高校生がノリで買えるようなものではなかった。

学校の授業で

高校生の頃、ある授業の中で、グループ毎に発表する機会があったが、私は一人で「イタリアの歴史スポット」を発表した。大きな模造紙に地図を描いて、各地の建物や歴史の説明を貼り付けた。自分の好きなように作り上げたこの頃から既に、ラジオディレクターとしての自分が成り立っていたんだと思う。
そもそも、何の授業だったか、友だちが何の発表をしたのか思い出せない。だが、その時に使った本は今もイタリアの我が家のクローゼットの片隅に眠っている。

間違いなく、あまりのイタリア好きに、友だちからも特異に見られていたことだろう。

とは言え、イタリア漬けだったのではなく、当時は長く続いた彼氏もいたし、所属していた市民吹奏楽団の週に2回の練習にも参加していたし、友だちとカラオケや街ブラなど、我ながら学生時代を謳歌していたと改めて思う。

パスタ料理

恥ずかしながら、料理にあまり触れてこなかった。お弁当は作っていたが、焼いて詰める程度。イタリア好きが高じて、料理にも目覚めた。
NHKテレビで、初心者でも簡単にできるイタリアンの説明に夢中になった。私でもできそう!と感じたので、番組の雑誌を買い、一から自分で作っては、家族に振る舞った。反応は良く、パスタソースは手作りする方が美味しいと家族は絶賛してくれた。

20年前の庶民が買っていたパスタソースは、そこまで本格的な味を出せていなかったのかもしれない。そのくらい、自分で作るものが、こんなに美味しいのか!と自画自賛した。


留学に至る経緯


ただのイタリア好きな女子として高校生が短大生になり、社会人へとなった。

憧れていたアメリカ

実は、イタリア好きになる前は、アメリカや英語に夢中になった。両親の洋楽好きに影響され、ビートルズはもちろん、60年代のオールディーズを歌詞を片手に一緒に歌った。

小学生の頃になると、英語塾にも通い、いつかみんなでアメリカへ行こう!と夢を描いていた。

また、高校生の頃は、第一回校内英語スピーチコンテストで優勝。イタリア語好きと言いながら、英語の勉強にも励んだ。卒業後は、大阪の外国語大学か、アメリカ留学に行きたかったが、末っ子の長女ということで、家から出してはもらえなかった…

地元の英語科の短期大学に通うようになった。2年の時にオーストラリア留学を行くこと目標にバイトをして資金を貯めていた。
だが、悔しい思いをして諦めた。それが当時アジアで大流行していた、死にまで至るウィルス「SARS」。アジア経由で向かうことを告げると親は冷静に反対した。まぁ、オーストラリアだしいっか。という程度だった。

その後、社会人になって、ハワイとニューヨークに旅行へ行った。特にニューヨークは、今でも再訪したいと思う魅力的な街だ。

いつしか、自分の中でイタリアの存在が薄れていっていた。


きっかけは事故

ラジオディレクターとして働き10年があっという間に過ぎた。担当番組も増え、出張も多くなっていた頃、その出来事は起こった。

車で四国内を頻繁に巡っていた。ある帰り道、高速道路で先輩が運転する車で事故を起こしそうになった。追越車線に割り込んで来た車を避けようとしたが、操作をうまくできず、車は速度の高いまま蛇行し始めた。先輩の叫び声と、車の揺れは思い出すだけで身震いする。そんな状況でプロデューサーは、ハンドルをしっかり握り、傷ひとつつけることなく私たちを守った。


こんなところで死んだら、後悔お化けになる…


まだ何も達成していない自分に恐ろしくなり、今仕事を辞めて、やりたかったことをしなければ!と奮い立った。

そしてある夜、棚から一枚の通帳が落ちてきた。そこには1000000という文字だけが書いてあった。給料を受け取る口座の額が大きくなったので、母から個別に移しなさいと言われていた。それを忘れていた私もどうかと思うが、突如現れた。
このことを母に言うと、「好きなところへ行ったら?」と言われ、目覚めた。

「ヨシッ、仕事を辞めて留学する!」


ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、パリにしようか考えていたが、イタリアがずっと好きだったことから、候補の上位に上がっていった。既にドイツとロンドンに住んでいる、幼馴染の存在もあり、アメリカではなく、イタリアを選んだ。そして、気候や旅行のことを考えて、最終的にフィレンツェの語学とインターンシップができる学校を選んだ。

仕事を辞めると決めて、一年弱でフィレンツェに到着。当時28歳。あらゆるものを投げ打ち、たくさんの手続きが必要だったが、そんな苦労より、イタリアで新たな生活を始められるならと 何でもできた。

そこから、夢のようなフィレンツェ生活が待ち受けていた…

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