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【短編小説】ブルーウィンド・ブルーウェイブ

 突然差してきた光がまぶしくて目をそらした。

 駅から海岸に向かう道の途中、大きな道路を渡るために地下通路を通ってみたら、通路を出て地上に出たときの明るさにびっくりした。

 風がびゅうっと吹いて、思わず手をコートのポケットに突っ込む。手袋をしてこればよかった。

 あ、潮の匂いがする。

 立ち止まって鼻をすんっとすすってから、思いきってマスクを外してみた。

 遮るものがない状態で大きく息を吸ったら、今度はむせて、思わず顔をしかめる。なんだか空気が濃い。フィルターを通さずに入ってきた匂いが、さっきよりも海の存在感を主張してる。

 もう一回、深呼吸するみたいにゆっくり吸ったら、ようやくなじんできた気がして、息を吐きながら海に向かって再び歩き始めた。

 はじめて降り立った海辺の町。その空気に私の体がちゃんと反応してるのがうれしい。


 2時間前、会社の最寄り駅を寝過ごして、ドアが閉まる様子をスローモーション映像で眺めていた。まばたきをしてる間に、ゆっくりと電車は走り始めた。

 半年に一度の大きな会議。次の季節に全社的に力を入れていく企画のプレゼンを任されている。

 入社8年目にして降ってきた大チャンス。昨日も夜中ぎりぎりまで、チームのみんなでビデオをつないで資料を練った。

 早く降りて、反対方向の電車に乗り換えないと。頭ではそう思うのに、体は言うことを聞かない。座ったまま、足元ヒーターの暖かさが気持ちよくて、もう一度寝てしまいたいとさえ思う。

 どんどん電車は進んで、会社から離れていく。

 朝の通勤ラッシュ。次の駅に止まるたびに大量の人が降りて、そしてまた乗ってくる。世の中リモート化が進んだってほんとかな。この中でどれだけの人が、自分が行きたいと思ってる場所に行こうとしてるんだろう。

 5回ほど人が大移動する様子を眺めてから、腹をくくって社用スマホでチャットを開く。

 直属の上司の名前にアットマークをつけて、

「すみません、体調不良で本日欠席します。

 11時からの会議プレゼン、よろしくお願いします」

と打ち込んだ。

 ため息をつきながら送信ボタンを押して、スマホの電源を切った。


 電車に揺られながら、どうせなら行けるところまで行ってみようと思った。

 西のほうまでずっと続く線路。このまま進み続けたら、私はどこまで行けるだろうか。

 そんなことを考えていたら心地良い眠気が襲ってきて、目が覚めたらすでに1時間ほど経っていた。車両を見渡したら、さっきの満員電車が嘘みたいに乗客は少なくなっている。

 すっかり乾燥してしまった目に目薬を差してもう一度座り直したら、窓の向こうにうっすらと海が見えて、次に止まった駅で降りてみることにした。


***


 海岸に出て、どうせならと思って、波が届くか届かないかぎりぎりのラインを歩いてみることにした。

 パンプスで歩く砂浜は歩きづらいことこの上ない。歩くたびにヒールが砂に埋もれる。水を含んだ砂に引っぱられて、ふくらはぎが重い。

 波の音が一定のリズムで響く。カラスが遠くで鳴いている。 

 風が強い。寒い。なんでこんな真冬に歩いてるんだっけ。私はいったい何がしたいんだっけ。

 歩けば歩くだけ、止まるタイミングがわからなくなってきた。それでも、意地になって歩き続ける。 

 途中で飽きてきて、イヤホンをつけて音楽アプリを立ち上げる。この前、職場の後輩に教えてもらったヒット曲。社会人になって、新しい曲を自分で見つけることはめっきり減ってしまった。


 歌を聴いていたら、だんだん気分が乗ってきて、鼻歌を歌った。印象的なサビが頭に残るから、何度も繰り返してしまう。

 そのうち歌詞も頭に入ってきて、声を出してメロディを口ずさむ。重かった足もスキップを踏める気がしてきた。気がするだけで、実際は軽やかどころじゃなかったけど。人っ子一人いない海岸は、カラオケで歌うよりも気持ちいいかもしれない。

 海の匂いにもすっかり慣れて、とにかく足もとに打ち寄せる波だけを見て無心でずんずん歩いていたら、さっきまでモヤモヤしていた頭の中がちょっとだけすっきりした。

「ねむいーくうき、まとうー、あさに、・・・・・・あたっ!」

 調子に乗って大声で歌っていたら、いつの間にか大股になっていたのか、前のめりで盛大にコケた。

 砂にまみれて座り込む。そしたら、おなかが鳴った。

 腕時計を見たらもうすぐ14時になるところだった。

 ピンクゴールドの色合いが気に入って、初任給で買った腕時計。毎日会社に行く準備をするたびウキウキしていたはずなのに、あのキラキラな気持ちはどこに行ってしまったんだろう。

「ねえねえ!」

 突然後ろから声がしたので振り返ると、女の人が立っていた。

「おねーさん、歌じょうずだね~」

 ニコニコ笑いながら、その人はポニーテールを揺らした。Tシャツにジーンズ、軽くダウンを羽織って近所に散歩に来ましたという感じ。片手に大きなビニール袋を下げている。中には木の枝のようなものが見える。

 え、歌・・・・・・? 一瞬首をかしげかけて、さっきの自分の大声カラオケに思い至って血の気が引く。

「あ、あの」

 話そうとした私を遮るように、海岸沿いの道路の向こうを指さして、その人が言った。

「すぐそこに食堂があるんだけど、なんか食べてく?」

 頭が動いてなさすぎて、その言葉が届くまで3秒かかった。だけど、届いたら一瞬で答えてた。

「・・・・・・はい!」

 もう何も考えられないほど、歩き疲れて空腹は限界だった。

「じゃ、ついてきて」

 私が答える前にその人は歩き始めていて、私も砂まみれのコートをはたいて必死で立ち上がる。靴の中も砂だらけだけど、これはもうどうしようもない。マスクについた砂だけは落として、小走りで追いかけた。

 海岸沿いの道路に面した古い木造の家。がらりと引き戸を開けて、その人は振り返って言った。

「ようこそ、おひさま食堂へ!」

 木でできた古い引き戸には木製のプレートがかかっていた。筆だろうか、下手なのか達筆なのかわからないような、とにかく勢いのある字で「おひさま食堂」と書かれていた。

***

 冷たい消毒液をシュッとワンプッシュして手をこすりながら中に入る。お店の中には、大きな四角いテーブルが一つ。向かい合うようにして、椅子が3つずつ。

 思っていたよりも小さいお店だ。さっきの人が「ちょっと待っててねー」と調理場に入ってしまったので困っていたら、テレビを見ていたらしいおじさんが私を席に案内してくれた。「この時間にお客かい? 珍しいね」なんて言いながら、急須にお湯を注いで熱々のほうじ茶を出してくれた。

「坂口さん、もう食べ終わって1時間以上もテレビ見てるよ。帰って仕事しなよ~」

 調理場から声が響く。

 おじさんはその声が聞こえてるのかどうなのか、「また人が増えてきたらしいねえ、大変だねえ」なんて言いながら、自分の分のお茶を淹れてから、私の向かいに座った。

「あの人ねー、ミハルちゃんっていうの。僕はねー、昔から近所に住んでる、このお店のファン」

「はあ・・・・・・」

「ミハルちゃんのごはんはおいしいよ~近所にファンがいっぱいいるんだよ」

 うまくついていけない私を差し置いて、坂口さんという人はいろいろと説明してくれる。

 お店は3年前にオープンしたこと。毎日メニューは一つしかないこと。年中無休でお店をやっていること。この2年は遠方からのお客さんが減って、それでも近所の人たちの憩いの場となっていること。

「さ~どうぞ! この時間だから、もう残り物だけどね」

 10分もしないうちに、ミハルさんがお盆に載せた定食を運んできてくれた。ご飯と焼き魚はアジだろうか。小さな小鉢に盛り付けられた里芋の煮物と、お味噌汁にきゅうりのぬか漬け。なんの変哲もないシンプルな和定食。

 お味噌汁に口をつけて驚いた。おいしい。

 寝不足で、当日欠勤した罪悪感にまみれてて、無駄に歩き続けてぼろぼろになった体にしみる。

 勢いで一気に飲みきってしまいそうになって、いったん気持ちを落ち着かせる。あらためて、もう一度口にする。

 今度は体の中に流れてくる前、だしの香りが鼻に入ったときにわかった。これは、ものすごく丁寧に作られているのだ。どこまでも優しく、食べる人のことを考えて作られた食事だ。

 お箸を置いて顔を上げたら、ミハルさんと目が合った。

「ん?」

「おいしいです・・・・・・すごく」

 と、素直に伝えた。

「でしょー!」

 坂口さんがうれしそうにテーブルに乗り出す。

 ミハルさんもニヤッと笑って、

「なーんせ、愛情込めてるからね~」

と笑う。

 聞いてるこっちが恥ずかしくなりそうなセリフだけど、たしかにこの食事には説得力がある。

「っていうか、坂口さんはほんとに帰りなさい! お店にお客さん来てたらどうするの」

 ミハルさんがテレビを切って、調理場に戻っていく。「はいはい~また明日も来るからねー」

 上着を着込んだ坂口さんは、出て行く直前に私の近くまで来て「ミハルちゃんはね、10代の頃から東京の割烹で修行してたんだよ」と教えてくれた。

「ミハルちゃんのごはんは、毎日食べても全然飽きないんだ」

 出してもらった食事を一つずつ味わいながら、心と体が温まっていくのを感じた。そうか、いつの間にかすっかり冷えきっていたんだな。


 すっかりお腹が満たされて窓の外を見たら、すでに日は傾き始めている。冬の日照時間は短い。あっという間に暗くなってしまう。

 帰る準備をして会計をしようとしたら、ミハルさんは店の前のベンチに座って、水の入った大きなたらいの中でじゃぶじゃぶと何かを洗っていた。

 なんだろう? どんどん洗って、並べられていく。私が横に立っているのに気づいたミハルさんが、一つずつ見せてくれた。

「これねー、流木。たまにカッコいいやつが砂浜に流れ着いてるから、見つけたらこうやって洗ってコレクションしとくの」

 大きいのから小さいのまで、自然にできあがったとは思えないような不思議な形状をしたものが並んでいる。

「貝殻もかわいんだけどさ、やっぱ木なんだよね~」

 ミハルさんが夢中に作業している様子を見ていたら、私は急に心細くなってきた。

「あの・・・・・・しばらく見ててもいいですか?」

 ミハルさんが手を止めて、目をぱちくりとした。

「見るって、これ?」

 私は首をぶんぶん振って頷いた。

「ええ~いいけど、こんなの見ておもしろい? ほら、隣の駅に行けば水族館とか、有名な神社とかあるし。暗くなる前に寄ってけば?」

「ここが、いいんです」

「ふーん?じゃ、まあ、好きにすれば~?」と、歌いながら作業を再開した。

 だんだんと暗くなってきた。帰らないと。

 二人がギリギリ座れるサイズのベンチで、ミハルさんの手元を見ながら考える。

 明日からまた会社に行けるのかな。・・・・・・いや、もう行かないっていう選択肢もあるか。

 ぐるぐると頭の中を思考が巡る。何が正解なのかわからない。私は何がしたいんだっけ。

 道路をはさんだ向こう側にさっきまでいた砂浜が見える。波の音が聞こえる。横からは、ミハルさんの鼻歌が聞こえてくる。

 ベンチに座ったまま空を見上げて、宙に向かって大きく息を吐き出した。

「君も歌ってみたら?」

「え?」

 気づいたらミハルさんは、私の顔を見ていた。

「さっき歌ってたじゃん、砂浜で」

 大声で歌いながらコケた自分を思い出して汗をかく。

「あれはっ・・・・・・」

 弁解しようとした私の声をミハルさんの笑い声がかき消した。

「はははっ! 豪快にコケてたね~。あれはなかなか良かった! 前のめりでさ」

「・・・・・・コケようと思ってコケたんじゃありません」

 ちょっとふてくされた気持ちになって答える。

「でも、自分じゃ止まれなかったんでしょ? 止まれてよかったじゃん」

 何を見透かされたのか、言われた言葉に驚いてミハルさんを見た。

 ミハルさんは遠く海の向こう側を見たままで続ける。

「すごい顔つきで向こうから歩いてくる人がいたから、大丈夫かなーって思って見てたの。もう足下もおぼつかないし、そもそも海に来る格好じゃないし。なのに、必死で声出して歌っててさ」

 さっきまでの自分を思い出す。そんなふうに見えてたのか。

「会社辞めようかなって思いながら、歩いてました」

 自分で口に出しておいて、実際に口に出したら想像以上のボディブローを受けて面食らった。

 ほんとは、もうずっと知ってた。私はもうあの場所にはいられないって気づいてたのに、見ないフリして、自分でもどうしたらいいのかわからなくなってた。

「大声出すのって気持ちいーよねえ」

「ちょ、聞いてました?」

「うんうん、聞いてた聞いてた。君は自分で好きな歌をちゃんと歌える人だから、大丈夫だよ。困ったら、さっきみたいに大声で歌ったらいいんだよ」

「ちょっと長くなるけど、せっかくだから聞いてきなよ」

って、ミハルさんは自分のことを話してくれた。


***

 ここはねー、もともと私のおじいちゃんが海の家をやってたの。だけど、父親は継ぎたくなかったんだね、若いときに東京の会社に就職して、ずっとサラリーマン。海の家は10年以上前に閉めてたんだけど、5年前にいよいよおじいちゃんが死んで、さあここをどうしようかって親戚で話し合ったの。

 って言っても、こんなボロくなった木造家屋、誰も欲しがらなくて、じゃあ私がもらいますってことになったんだよね。

 もう一回海の家にしてもよかったんだけど、私は料理人だったから、やっぱり人に何かを食べてもらう場所にしたいなって思って。そんで、働いてたお店を辞めてここに来た。


 このお店はね、当たり前のごはんを、当たり前においしく食べられる場所にしようと思ったの。

 家のお母さんの献立と同じ。だから、メニューは無くて、その日に出せる定食は1種類だけ。その代わり、一年中、いつでも絶対に何かは食べられる。

 たまに帰るとさ、実家の冷蔵庫って宝の山だって思ったことない? よくそんなに買い込めるねって。ドアが閉まらないくらいで、絶対食べきれないでしょって。あれって、子どもたちが帰ってくるのを想像しながら買い物してるんだよね。


 食べる人のことを考えて、丁寧に作る。すごくシンプルだけど、ごはんをおいしく作るための一番の秘訣なんだよ。


 自分でお店やるなんて始めてで大変だったけど、どうにかこうにか最初の一年乗り切ってみたら、今度はあっという間に世の中の状況変わっちゃってさ。外食なんてっていう雰囲気になっちゃった。 

 でも、みんなが家で食事をするようになったんだったら、それでもいいかなって思ったりもした。私が作ったごはんじゃなくたって、それぞれの家で、みんなが当たり前に自分たちのごはんを食べれるなら、それでもいい。


 さっきの坂口さんは近所の自転車屋さんの三代目なの。私のおじいちゃんも、自転車のメンテナンスしてもらってた。私も子どもの頃、夏に来るたび遊んでもらってた。

 かわいらしい奥さんがいて、おしどり夫婦で有名だったんだけど、病気で奥さんを亡くされてね。たまに娘さんが様子を見に来るけど、毎日の食事は自分で準備しなきゃいけない。それで、この食堂ができてからはよくしょっちゅう食べに来てくれるようになって。この一年はほとんど毎日っていいほど通ってくれて。近所の人たちにも声かけてくれて。


 今は、いつやめてもいいって思いながら、それでも毎日お店を開けてる。補助金も出てるしね。

 ここは観光地だからさ、そもそも来てくれる人がいなくなったら町も機能しなくなっちゃうんだよ。私一人がどうこうするって問題でもない。

 だけど、とことん風に流されてみるのも悪くないかなって思ってるんだよ。

***

「海の近くに住んでみたら、よくわかった」

 ミハルさんは言う。

「いつだって風は吹いてるの。どんなに静かに思える日でも、砂浜に立って、静かに耳を澄ませて、体全体で感じたらわかる」

 タイミングを見計らったように風が吹いて、ミハルさんのポニーテールを揺らす。夕焼けに照らされたミハルさんと私の影が足下に並ぶ。

「風の流れは一つじゃなくてね、大きい風もあれば、小さい風もある。いろんな方角から吹いてきて、またいろんな方向に流れていく。だけど、しっちゃかめっちゃかに見えて、実は秩序立ってる」

 よくわからなくて私が無言で聞いていたら、ミハルさんが私の背中をばあん!と叩いた。

「痛っ! 何するんですか!」

 右手を後ろに伸ばして背中をさすりながら、恨めしい気持ちでにらむと、「ごめんごめん!」とミハルさんは立ち上がって、私をのぞき込んだ。

「つまりね、人も波も、ずーっと同じ場所にはいられないってこと。ときには強制的に、ときにはすごく自然な流れで動き続けるものだし、それでいいんだってこと」

「・・・・・・なんとなく、わかります」

 私がそう言うと、ミハルさんはニコッと笑いながら私の背中に触れて、店の中に入っていった。

「はい、じゃーん!」

 戻ってきたミハルさんが大きく掲げたのはA4サイズのチラシだった。白黒コピーの、いかにも手作り風。筆で勢いよく書かれた文字はきっと一発書きで、全体のバランスが悪い。入口のプレートはミハルさんのお手製だったのか。


===アルバイト募集!!(住み込みも可)===


「あたたかくなってきたら、夏が終わるまで繁忙期だからね。このまま一人で休みなしでやってもいけないし、バイトでも探さなきゃと思ってチラシ作ったところだったの」

「なるほど・・・・・・」

「世の中には、いろんな選択肢があるってこと! よーく考えてみて、もし寄り道してもいいなって思えたら、また遊びにおいでよ。夏の海はきれいだぞー?」

 私が返事できずにいたら、ミハルさんはニヤッと笑いながらチラシを私の体に押しつけてきた。

「歌も、ここなら歌い放題よ?」

 かあっと頬が熱くなるのを感じて、その紙をかろうじて右手で受け止めながら、左手で頬を押さえる。腕時計の針がカチッカチッと進む音が聞こえた。


「お代はいいからさ! また遊びに来てよ」

 そう言って、ミハルさんは駅までの道を教えてくれた。どうやらここは、最初に降りた駅からはずいぶん離れてしまっているらしい。

 もう一度、ミハルさんの顔を見てから、お辞儀をして、くるりと背を向ける。パンプスのかかとを鳴らしながら早足で歩き始めたら、風が後ろから吹いてきて今が真冬だったことを思い出した。

「まったね~~」

 海沿いの道を曲がって私が見えなくなるまで、ミハルさんは何回も声を出して両手を振り続けてくれた。


 街灯の少ない海辺の町を一人で歩きながら、すっかり冷えた手をコートのポケットに突っ込んだ。ポケットの中で、右手にさっきのチラシがあたる。

 会社を辞めて、見知らぬ土地に移り住む? そんなこと、私にできると思わない。

 だけど、夏の青い海を見てみたいと思ってしまった私がいる。あの瞬間、たしかに私の体は反応した。

 あのとき、ミハルさんは「波にうまく乗るためには、まずは海に出ないとね」って言った。

 私の船はどこに向かうんだろう。

 風に乗って、波に乗ったら、いつかどこかに辿りつけるだろうか。

 暗い道の向こうに駅の明かりが見えてきた。冬の夜風が音を鳴らして近づいてきて、そしてあっという間に私を追い越していく。

 耳の奥で響く波の音を、私は何度も何度も思い出していた。

(2022/01、7,800字)


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