広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その67。
普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。
今日は少年時代のイエス様。イエス様が中学生の頃。一見めっちゃ反抗期やん!っておいうエピソードですがそれにはちゃんと意味がありましてね、というお話です。
「イエス様の反抗期?」
中学生ってどんな時期でしょうか?まず、体が大きくなりますよね。そして男の子とは声が低くなったりしますよね。そして、反抗期と呼ばれる保護者の方とケンカしがち、という時期でもありますよね。うっせえなあって言いたくなる感じですね。それも大人になるための必要な時期だったのかなあとも思うわけですね。
大人になるってどういうことでしょうか?いろんな定義があるとは思いますが、自分で社会と直接関わっていくということだと思います。保護者の方を通してではなく自分で。親というのはどうしても子供のことが心配で自分でフィルターをかけて守りたくなるものです。でもいつかは子供が自分で直接社会に関わっていくことになるわけで、その関わりをどう持っていくかがその後の人生にとてもインパクトがあるわけです。
今日の箇所はイエス様が中学生の頃の箇所です。12歳、中学1年生ぐらいですね。そのころは過越の祭り、モーセさんがエジプトを脱出したことを思い出してお祝いするお祭りのタイミングでエルサレムに行くのが習慣になっていたそうです。120キロぐらい離れたナザレからエルサレムまで毎年いってたんですね。この年末年始もコロナがおさまって初めての年末年始でしたからすごい人でしたね。そんな感じでエルサレムにみんな帰省する感じで集まっていたそうです。特に12歳のタイミングで神殿に行くということに意味があったそうです。
ヨセフさんとマリアさん、そしてイエス様3人でエルサレムに行って帰ることになったんですが、当時は女性が先に出発して、その後に男の人が出発するのが普通だったそうです。そして親戚のみなさんとも一緒に帰ってたこともあり、マリアさんヨセフさんどっちがイエス様を連れて帰るか、ちゃんと話せていなかったみたいで、1日歩いた後の待ち合わせ場所で探したらイエス様がいなかったんですね。びっくりしたと思います。スマホも電話もない時代にいったんはぐれてしまったら大変です。そこでマリアさんとヨセフさんは来た道を戻って行きました。とっても心配だったと思います。なんか事故にまきこまれた?とかいろんなことを想像してたのかもしれませんね。そしてエルサレムに戻ってみたら、はぐれてから3日たっていたみたいですね。1日行って帰ってとすると帰りながら探したから帰りは2日かかったのかもしれません。
そしてイエス様はどこにいたかというと、神殿にいたんですね。46節「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 聞いている人はみなイエスの賢い受け答えに驚いていた」とあります。なんとイエス様は神殿にまだ残っていたんですね。そこで、聖書についていろんな話をしていたそうです。それをみてヨセフさんとマリアさんはびっくりしました。そしてそこで同じようにうちのイエス、すごいやんかー、あれ、うちの子です!みたいなことをする、余裕もなく。
なんと言ったかと言うと「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。おとうさんも私も心配して探していたのです」と怒ったんですね。その当時12歳はもう大人の入り口ぐらいの感覚だったとは思いますが子供を叱るように怒りました。当然ですよね。いつごろ帰るぐらいの約束は多分していたと思います。それを無視したイエス様に対しても怒ってるし、たぶん、イエス様とマリアさんとヨセフさんいったん目が合ったと思うんですよね。そこで普通だったら、あ!ごめんごめん!って目で謝る。いったんその場をちょっと外して、その議論の輪から出て、あ、お父さんお母さん、ごめんなさい、みたいな、まあ一言でいうとまず謝るやろうとヨセフさんとマリアさんは思っていたと思うんですよね。そしたらイエス様から予想もしないリアクションがあったんです。
「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」と。
みなさんはどう思いますか?うわーって感じですよね。こんなん言ったらあかんやろと。でも反抗期の中学生だったら言いそうとも思えますよね・・・。この箇所はみなさんの歳でみるのと、わたくしぐらいの歳でみるのとは全然違って見えます。親の目線からしたらまず謝れ!と思ってしまうんですよね。60節「両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった」とあります。二つの意味で意味がわからなかったんだと思います。まず本当に何を言っているのかがわからなかった、そして、もうひとつが、なんでいま意味の分からないこというのが分からなかったということです。他に言うことあるやろ、という意味で。
イエス様のこの言葉の意味はその頃の誰が聞いても意味がわからなかったと思います。父の家にいると言う言葉、これはイエス様がご自分のお父さん、ヨセフさんじゃなくて、父なる神さま、神様の家、神殿にいることが当たり前じゃないかということを言っているんですね。この世の考えではお父さんはヨセフさんだけど、イエスさまからしたらお父さんは神様なんですよね。だから神様の家、神殿にいるのが当たり前だと。このこの世の考え方とのズレ、お父さんという言葉自体の意味がズレていることこのズレにこそイエス様がこれからの人生で向き合っていくことになっていくテーマなんですね。最初にそのズレが露わになった出来事でもあるわkです。
この意味はいま私たちはわかりますが、少なくともズレてるなあということはわかりますが当時のヨセフさんとマリアさんは本当に意味が分からなかったんですね。でもそこでマリアさんはどうしたか、マリアさんは心に納めていたとあります。マリアさんはイエス様が生まれますという天使のお告げがあったときも心におさめていましたし、本当に神様には何かお考えがあるはずだ、と思って、自分で、この子はなんかおかしいこといってるから、直さないと!とかそういうことをせずに、神の子って言われてたからなんかあるんだろうなあと見守っていたんです。
そしてヨセフさんとマリアさん、イエス様は一緒にナザレという村にもどって暮らしていました。そこからイエス様はどういう成長をしたのか?わたしの家は神殿なのでずっと神殿で暮らします!と言って出ていったのかというとそうじゃなくて大工であるヨセフさんの手伝いをして暮らしていたそうです。この世の中のことと、神様の子供であるということ、その両方の役割をしっかりと果たしていたということなんですね。
これが今日のポイントです。その結果イエス様は「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」とあります。大人になるということはどういうことか、親だけでなく、社会とひとりで関わっていくことが増えていくということ。その関わりという中で、誰と関わっていくか、もちろんみなさんは人と関わっていくと思います、友達、たとえばバイト先の大人、関わっていく人が増えて行きます。それは人との関わり。
そしてもうひとつ、神様との関わり、教会に来て、聖書を読んで、聖書のお話を聞いて、そしてそれについて、話す、まさにイエス様が神殿で行っていたことですね。その神様との関わりを大事にして過ごしてほしいと思います。そうすることでみなさんはかならず神と人とに愛される人生を送ることができるのです。この神と人とに愛される人生を送るために、今年もいろんな人と関わり、神様と関わっていく年にしてほしいと日曜学校の先生全員が願っています!おしまい。
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