広告クリエイティブは聖書も分かりやすく語れるのか?その82
普段広告クリエイティブの仕事にどっぷり浸かりながら、日曜日に子供さんに聖書のお話をするお役目をいただいております。今日はイエス様にどうしても会いたくて天井を剥がすお話です。なかなかダイナミックなお話でして、聖書ってほんといろいろ意味が濃縮されてて面白いなあと思いますね。イエス様が何をする人かのお話です。
<ぱっと見で何する人かわからなかったイエスさま>
みなさん、自己紹介ってしますか?学校いってるとあんまり機会がないかもしれませんね。なんとか小学校、何年生、名前、ぐらいでしょうか?中学生だと部活を説明したりするかな?英語で話すことがあると自己紹介の練習けっこうしますよね。マイネームイズみたいな。お仕事してると結構あるんですね。わたくし、鈴木ですと。で名刺を出して、会社の名前と、何を担当しているかを伝えます。そこでポイントになってくるのは、自分は何をするためにいるのか?ということなんです。今回のお仕事のなかでどの役割を、どの部分をやりまーすということを自己紹介でお伝えします。もし、わたしが、スポーツ選手だったら、ぱっと見であああなたはスポーツするんですね、カラダが大きかったらラグビー選手ですね、お相撲さんとかすぐ分かります。パッとみで何する人かってわからないもんなんです。イエス様もおんなじでした。イエス様って別に見た目が特別だったわけでもなく、何をする人かわからない。ひょっとしたら大工として働いていたので、日焼けして、筋肉とかあったのかな?かもしれませんが、でも、神様っていう見た目じゃなかったんだと思います。神様っていう見た目ってなんやねんってことだとは思いますが・・・。今日のお話はイエス様の自己紹介。イエス様のことをそんなに知らないころのお話です。
<屋根を剥がしてまでイエス様に会いたかった5人>
イエス様がある人のおうちでお話をしてたら、家が人で満杯に。そこに病気で歩けない人を4人で運んできました。よいしょよいしょと運んできて、イエス様に会ってもらいたいともって、よいしょよいしょと運んできたんですね。でも満杯で入れない。となったときにこの4人がすごいんです。屋根まで登って、屋根をはがしたんです。その当時の家がどうなっていたかははっきりとはわからないのですが、でも屋根ってそう簡単に剥がれないし、人の家だし、けっこう大胆ですよね・・・。いまだったらスマホで動画が撮影されて、こんなやつがおった信じられへん!って炎上しそうです。でもこの4人はなんとかしてこの病気の男の人をイエス様の前につれてこようと考えて考えて、実行したんですね。えらいですね。ここを読んで思うのは、私もたまに、友達を教会に誘うんですが、あーちょっと予定がってなったらあーまた!ってすぐ諦めてしまうんですが、この友達みたいに本気でこの友達にイエス様に会ってほしい思てるかなと思ったら自分もまだまだだなあと思うわけです。ちょっと横道にそれましたが、イエス様に会ってほしいという一心で、屋根を剥がして、そこから吊り下ろして、ウイーンっとクレーンで降ろすみたいに、イエス様の前まで、その病気の友達をつれてくることができました。すごい情熱ですよね。その情熱はきっと友達の病気をなんとかしたいという気持ちと、この病気、あのイエス様だったらなんとかしてくれるんじゃないかという気持ちがあったからだと思います。その友達の気持ち、それが伝わる大胆な行動だったんだと思いますね。すごいですよね。
<信仰を見て>
それを見てイエス様はどうだったか?5節イエスはその人たちの信仰をみて、と書いてあります。イエスはその人たちの大胆な行動を見て、じゃないんですよね、イエスはその人たちの友情を見て、でもないんですね。イエス様はその人たちの信仰を見てというのが面白いです。イエス様だったらなんとかしてくれると思って、どんな手を使ってでもイエス様に会いに来る。ということを信仰とおっしゃってるんですね。屋根をはがすということで失うものがたくさんありそうな気がします。でもそんなことよりも、ぜがひでも、どんな手をつかっても、イエス様に会いにこうとする、それが信仰なんだとおっしゃっています。
<病気ではなく罪を赦す>
そしてそこでの一言が今日のポイントです「子よ、あなたの罪は赦される」というこの言葉です。子よ、という言葉は、神様の子供だよ、ということ、です。この信仰によって、信じることによって、もうあなたは神様の子供ですよとおっしゃってくださっているということ。結構すごい意味ですよね。そしてつぎ、あなたの罪は赦される、と。え?病気が治るじゃないの?と思いますよね。この病気の人たちも病気を治してもらいにきたわけですから、罪を赦しにきてもらってるか、と言われると、いやー、ってなったと思います。結構この発言で会場がシーンってなったんじゃないでしょうか。そのシーンってなってる中でそれをじっと見ていた人、当時の偉い人たち、律法学者さんが思いました。「神様以外で罪を赦すってできないんちゃうの?」と。イエス様ちょっとやりすぎ、いいすぎちゃうの?と思ったんですね。
<罪を赦すことの大きさ>
でもそこで、イエス様は言いました「あなたの罪は赦された、というのと、起きて床を担いで歩けというのとどちらが易しいか?」と。これもイエス様の言葉、難しいんですが、罪を赦すのと、病気治すのどっちが難しいかわかる?って言ってます。罪というのは人間が神様にのいうこときかないこと、神様につくられた存在なのに、神様を信じないこと、感謝しないこと、などなど。その人間誰しもが持ついちばんの問題が罪なんです。それを赦せる、ないことにする、ってそんなどデカいこと、たいそうなこと、すごいこと、いま赦すっていっちゃったけど大丈夫?って律法学者が思ったんですね。え?この人、なんか言いこといって、病気を治してくれる人なんじゃないの?いますごいこと言ったぞってね。そしてイエス様はいいました、10節 「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」 と。 つまり私は罪を揺ることができるんですよ、もちろん病気を治すこともできるけど、どっちがすごいか、どっちが、人間にとって、どっちが意味があるか、どっちがインパクトがあるか、ということをイエス様は伝えています。
<分かりやすい方が話題になる>
そしてイエス様はその後に、病気のひとに「起き上がって、床を担いで家に帰りなさい」といいました。担架みたいなの、もういらないから、起き上がってと。そうすると病気がなおって立ち上がることができました。病気がなおりました!すごい!みんなすげーってこんなのみたことないってなって盛り上がったのですが、が、そこで多分ニュースになるのはイエス様が病気を治した!だと思います。だってその方が意味がわかりやすいからですよね。でも、イエス様のすごいところはそこじゃない。罪を赦す、神様と人間の関係をガラッと変えられる人なんだということ、そのことは律法学者はわかっていたかもしれませんが、その場にいた人はわからなかったんですね。
<罪を赦せるのはイエス様だけ(病気を治せる人は他にもいる)>
イエス様の自己紹介として一番正しいのは地上で罪を赦す権威を持っている人 なんです。ところが病気を治す人でしょ、って思われる、思われちゃうけど、信仰のある人にはその信仰いいよ!と伝えるためにもわかりやすく、病気を治したのかもしれません。すいません、これは私の勝手な予想です。病気のある人病気のない人、いろいろいますが人間全員の問題は罪の問題。そこをなんとかしてくれるのがイエス様、なんです。そのスケールの大きさ、ダイナミックさ、そんな人はイエス様しかいないんだということをぜひ覚えてください。おしまい。
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