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広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その72

普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。今日はゲッセマネの祈り。子供の頃はなんやねんこれ、と思いがちな箇所でして。大人になっていろいろな聖書の箇所と総合して意味を炙り出して味がでてくるのかなあとも。その感じが少しでも伝わるといいなあと思ってお話しました。死にたくないという祈りがテーマです。

ルカによる福音書22章39節から46節
39:イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 40:いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 41:そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 42:「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 43:すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 44:イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 45:イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。46:イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

Copyright: 日本聖書協会

<誰のために祈るのか?>
みなさんはどんな時にお祈りしてますか?ご飯のまえ、が多いでしょうか。
自分が元気でいられますように。家族が元気でいられますように。などなど自分や周りの人のためにお祈りするでしょうか。日本では神社にいってお祈りしたりする人もいますよね。それはほとんど自分や家族のためにお祈りをするんですね。受験に合格しますように、だったり、商売がうまくいきますように、だったり。今日の箇所は聖書の中でもいちばん有名なお祈りの箇所、ゲッセマネの祈りと呼ばれる箇所です。このお祈りはいったい誰のためのお祈りなんでしょうか?というのが今日のお話です。
 
<誘惑に対抗して祈る>
最近のイエス様のお話、先週はペトロさんに私のこと知らないっていうよーっていったりとか、先々週はエルサレム入城でみんな大歓迎でしたーとかちょっとドラマティックな出来事が続いていました。今日もさらにドラマティックな場面です。もうすぐイエス様がつかまってしまう直前。十字架にかかってしまう直前のお話です。そこでオリーブ山という山のゲッセマネというところに行きました。ここにいつものとあるのでいつもここでお祈りをしていたみたいです。そしてこのあとユダさんが裏切るシーンでもいつものところにいるからユダさんが見つけやすかったということもあったみたいです。
そしてお弟子さんに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。ちょうどこの前にペテロさんに3度私を知らないと言うだろうといっていたようにこれからイエス様から離れていくであろうお弟子さんたちに伝えたかったんですね。これから引き離される力がものすごい働くからお祈りしなさいね、と。イエス様から離れよう、引き離そうという力に対抗するために、お祈りしてねーとイエス様はおっしゃっています。

<イエス様がなぜ罰を受ける?>
そしてイエス様のとても有名なお祈りが始まります。42節「父よ、御心なら、この杯をわたしからとりのけてください。」この杯とはお酒を飲む器のことをさかずきと言います。それを取り除けてください。どっかにやってください。杯どっかにやってくれませんかね?とお祈りしています。これはどういうことなのか。この杯という言葉は罰を受けるという意味で旧約聖書で使われていた言葉なので、この罰をうける、苦しみを受けずに済むならうけたくないです、とイエス様はおっしゃっています。みんなそうですよね。罰とか苦難とかは受けたくないですよね。でもそもそもイエス様がなんで罰をうけないとダメなんでしょうか。

<イエス様は神であり人である>
ここでちょっと難しいお話、でもとても大切なお話。イエス様は人間であり、神様であるとキリスト教では信じています。で、イエス様は人間なんだけど、神様なのでいわゆる人間が持っている罪、神様から離れてしまう、本当は神様につくられたものなんだから神様の方をむいていきていかないといけないのに、離れてしまう罪。イエス様だけが罪がない方なんですね。人間全員罪があるんだけど、イエス様だけはないんです。なのでイエス様は罰をうけるようなことは全然してない、唯一の人間、だからそんな杯は受けなくていいはず、なんですが・・・・。受ける必要がないんですが、なぜ罰をうけるんだろう、つまり十字架にかかるんだろうっていうお話なんですね。

<罪のないイエス様がなぜ十字架に?>
人間と神様の関係というのはずっとモメていまして、その度に、礼拝をして、動物を捧げていたんですね、犠牲といいます。人間が死ななければならないんだけど、代わりに動物をささげていたんです。それが旧約聖書の時代です。それがずっと続いていたんですがイエス様が救い主としてお生まれになった、という言葉は聞いたことがあると思います。救い主、救世主、いろんな言い方がありますが、じゃあ何から救ってくれるのかというと、これまで動物を犠牲として罪をゆるしてくださいー、とやってきたけれども、なんとイエス様という神様の子供、人間であり、神様であるイエス様が犠牲になって、十字架にかかって、私たちの罪をなくす、救ってくださったということなんですね。究極の犠牲、いけにえになる。それがイエス様が私たちにしてくださったことなんです。

<十字架にかからなくてもいいじゃないか>
イエス様はことあるごとにお弟子さんに私は罪から救うためにやってきたんだーと言ってきました。その救うにあたって「別に死ななくてもなんとかなるんじゃないかな。もっと他の方法あるんじゃないかな?」という誘惑に何度も遭っているんです。例えば荒野の誘惑という場面で、サタンから何度も別に人間なんてどうでもいいんじゃないの?もっと違う方法で救えるんじゃないの?という誘惑。他にもペトロさんから「死ななくていいんじゃないですか」と言われているそれと同じでここでイエス様は他の方法があるんじゃないのか?という気持ちを抱えていたんですね。

<本当に苦しいことをしないと人間は救われない>
子供の頃はこの言葉がどうしても理解できなくて、なんで、決まってることなんだからスーッとやったらええやんかと思ってしまっていました。
でも、ここで大事なのは本当に苦しいこと、痛いこと、血を流すこと、しかもイエス様は何の罪もないのに、十字架にかかるぐらいしないと、わたしたちの罪というのは無くならないんだーということなんですね。それぐらい重たいことなんです。だからこのわたしのさかずきをとりのけてください、という気持ちというのは、それぐらい辛いことをしてまでじゃないと、人間は神様に対して悪いことはなくならない、ということでもあるんですね。

<御心のままに>
そしてその後イエス様は、こうおっしゃいます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままにおこなってください」とおっしゃいます。ここで思い出すのが旧約聖書でダニエルさんが火の中にいれられそうになったときに、かならず救ってくれますといったあとに、「たとえそうでなくても」と言う言葉つけたんですね。神様にお祈りするお祈りというのはこういうこと、というお祈りの例です。イエス様も、とりのけてほしい、でも神様のお考えにおまかせしますとおっしゃいました。
 
<今生きるわたしたちのために苦しみ祈ったイエス様>
さて今日の箇所は2000年前のイスラエルで行われたお祈りですが、いったい誰のためにイエス様はお祈りしたのでしょうか?自分のためでしょうか?自分が助かりたい!とお祈りしたのでしょうか?そうじゃないんですね。わたしたちのためにお祈りしてくださっていたのです。わたしたちのために犠牲なるかならないか、自分は本当に苦しいけれど、人間のために、わたしたちのために、必要ならそうしてください、とお祈りしてくださっているということなんですね。
このお祈りを聞いて何を感じるのか、昔は、なんでやねん、と思っていましたがいまはそこまでしないとダメな罪なんだなあと思いますし、イエス様の愛、神様の愛を感じる、自分のためのお祈りなんだなあーと愛の重さを感じるお祈りです。みなさんにとってはちょっと難しいかもしれませんが、この愛を少しでも感じてもらえると嬉しいです。 おしまい。
 

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