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楽弓の歴史

バイオリンは擦弦楽器と呼ばれる楽器の仲間であることは初めの頃の投稿でお話しました。

その時の内容をもう一度見てみますと

擦弦楽器(さつげんがっき)
弦を弓で擦って(こすって)連続音を出す楽器のことをいいます。もちろん擦るだけではなくて弾いて(はじいて)音を出すこともあります。バイオリン以外ではビオラ・ダ・ガンバ、モリンホール(馬頭琴)、二胡など。
弾いて(はじいて)音を出すのが主体の楽器は「撥弦楽器(はつげんがっき)」と言います。(ギターとか)
中身に弦が張ってあり、それを叩いて音を出すピアノもありますが、ピアノは鍵盤楽器と呼びます。

この様に擦弦楽器を説明しています。

つまり、バイオリンは楽器本体だけでは演奏できません。
いや、出来なくはないですがバイオリン本来の魅力は引き出せません。

バイオリンが楽器の女王として君臨するには楽弓が欠かせないのです。

でも、楽弓はバイオリン本体に比べるとバイオリン初期の頃のものは殆ど残っていません。

昔の楽弓が残されていないのは

その昔、楽弓というものは楽器の付属品としてしか見られていなかったことが大きな原因のようです。それに加えて壊れやすかったこと、楽器本体と比べて修復が困難なことも原因でした。

特に楽弓本体とも呼べるスティックは折れてしまうと完全に修復することは困難です。

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現代の楽弓:各部名称

なぜ修復が難しいのか

それは、楽弓の構造が単純なために、その性能を素材の強度に大きく依存しているからなのです。

バイオリン本体は最も音に影響がある表板の割れであっても、その修復は楽器の強度や性能に大きく影響しないと言われています。もちろんただ割れたところを接着しただけで良いわけではなく、内側に補強を追加するのですが、それでもそのように表板が修復されたストラディバリウスの価値がほとんど下がること無く、トップバイオリニストに演奏され続けている事を見ればわかります。

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日本音楽財団が諏訪内晶子に貸与しているAntonio Stradivari 1714 "Dolphin"の表板、魂柱の立つ場所に大きな修復跡がある。

ところが、楽弓のスティックの故障は強力な接着剤が存在しなかった時代では、補強をしないと馬毛の引っ張る力には対抗できません。
しかし、補強材を加えるとその楽弓の重心、つまりバランスが崩れてしまい性能が大きく落ちてしまいます。
また、まっすぐ接着し直すだけでもとても難しいので、付属品として考えられていた楽弓が故障してしまったら、「新しいものに交換してしまおう」と考えるのも当然であったでしょう。
(現代の楽弓のヘッド折れの場合はほぼ機能を回復できますが、昔の楽弓はヘッド部分が現代のような鍵型になっておらずほとんど真っ直ぐなので、スティックの折れは致命傷と言っていいでしょう。)

そのため、アンドレア・アマティやその頃の他の楽器が実用的な状態でいくつも現存しているにもかかわらず、同時代の楽弓は実用できるものは残っておらず、あっても博物館で見られるのみです。
(当時の楽弓を現代のものと同様に改造することが不可能だというのも理由の一つです)

以上のような理由から、歴史などの研究は現存するサンプルが得られにくいため、当時の絵画や文献から想像するしか無いのが現状です。

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Hans Memling, angeli musicanti (1485)

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Leopold Mozart: Grndliche Violinschule 1787

しかし、絵画・文献から得られる僅かな情報から、現在に至る楽弓の歴史がある程度は推測出来ます。

バイオリンが生まれる前の楽弓

人類はコミュニケーションの手段として言葉と同様に音楽も使用してきました。
それは人類の文化の発達に密接に関わっていて、かなり古代から使われて来たと考えられています。

そのため、楽器の起源と言うのは突き詰めると「全く手がかりがなく、わからない」と言ってもいいくらい古代になってきます。

これと同様に、擦弦楽器も古代から使用されていたと推測されていて、常に「おそらく」という前置きで語られます。

これは、昔の楽器が現存していない物が多いので、絵画や彫刻、各地の伝承や民族楽器などから推察するしかないからです。

また、擦弦楽器(さつげんがっき)は「撥弦楽器(はつげんがっき)を何かで擦って音を出し初めたのが起源」という研究者もいれば、むしろ「擦弦楽器(さつげんがっき)のほうが撥弦楽器(はつげんがっき)よりも古くから使用されていた」と言う研究者もいます。

もともと弦楽器は現代の楽弓とは違う「楽弓(musical bow)」だったのではないかとされています。これは楽器そのものが弓で、弓に張った「つる(弦)」を指や棒ではじいたり、棒などでこすったり叩いたりして音を出していたのではと考えられています。

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Joueur de villu

これは、インドの「Villu(ヴィル)」と呼ばれる楽器ですが、見ていただくとわかるとおり、擦っている(叩いている?)のは弓矢状の棒です。
武器の弓は手が滑るのを防ぐために手に松脂を塗っていたと考えられています。その松脂のついた「つる」を弓矢で擦ると音が出たので、そのまま楽器にしたのでは?と想像できます。

これを根拠に「撥弦楽器(はつげんがっき)より擦弦楽器(さつげんがっき)のほうが先に生まれた」と考えている研究者もいるわけです。

ただ、この様に弓のままだと音は弦からの直接的な振動音だけですので、ほんの数メートル以内でしか聞き取れないほどの小さい音だったでしょう。
そこで、口で加えるなどして音を口腔で増幅するようにし、さらに大きな果実をくり抜いたものを取り付けて共鳴胴にするなどに発展させたと考えられています。

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Obu man playing a musical bow : Nigeria

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three berimbau one pandeiro

ある意味ここからが楽器としての発展の始まりです。

おそらくアラブの「Rebab(レバーブ)」が洗練された共鳴胴のある擦弦楽器としては最古のものと思われています。この頃の擦弦用の楽弓は弧を描く弓でした。

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Rebabs, Mevlâna mausoleum, Konya, Turkey

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Rebabs: from the Cantigas de Santa Maria c.1260

この楽器がヨーロッパへ渡り、初期の「viola(ビオラ)」(フィドル)へと変わっていきますが、楽器の形態は変化していくものの、楽弓は大きく変化しません。

と言うか、ほとんどの絵では楽弓の表現はデフォルメされた丸い弧を描く線に直線が描かれているものばかりで、詳細がわかりにくいのが現状です。

その中でも、「Vielle(ビエッラまたはビィエラ)」と呼ばれる中世の楽器には、弓に張った毛を紐で縛って持ちやすくした様子が複数の絵で確認できます。

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Ormesby Psalter: c.1310

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Peterborough Psalter: Early 14th Century

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Melozzo da Forlì: 15th Century

この楽器は12世紀の終わりには完成形となり、15世紀頃まで吟遊詩人達によって頻繁に使用されていたようです。

この様に、ただの弧を描く形では持ちにくいので、持ちやすく、張りを持たせる工夫がされていったようです。そのため、段々と弧の形も丸いものから平らになっていき、現代の楽弓に近づいていきます。

そして、巻かれていた紐がフロッグへと進化していきます。

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Predis: Giovanni Ambrogio 1490

これは15世紀頃の「lira da braccio(リラ・ダ・ブラッチョ)」と呼ばれる楽器です。この楽弓には毛をフロッグと呼ばれる部品で張りを持たせています。

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矢印の部品がフロッグ

このフロッグという部品を発明した時が、楽弓の歴史の中では大きな転換点だったと私は考えていますが、誰が考案したのかまったくもってわかっていないのは残念です。

これ以降、ヨーロッパの擦弦楽器はフロッグを使用した楽弓が多数派となりました。

おそらくこの頃は楽器の種類に関係なく奏者の使いやすい楽弓を自由に使用していたでしょう。

つまりlira da braccioにはこの楽弓、viellaにはこの楽弓と決まっていたわけではなく、どの擦弦楽器にどんな楽弓を使っても問題はなかったと思います。

ですので、この楽弓がこの後すぐに現れる「viola da gamba(足のビオラ:ビオラダガンバ)」や、「violino(小さなビオラ:バイオリン)」に使用されるようになるのは必然だったのではないでしょうか。

バロック時代の楽弓

ルネサンス後期にはフロッグという部品がつけられた楽弓が現れました。
そして、バイオリンが誕生したのもその直後ですから、その楽弓が流用されていたのは間違いないでしょう。

では、具体的にどんな楽弓だったのか、実際に私が作った楽弓で説明します。

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このように外側に弧を描くような形をしていますが、実はスティック(棹)の部分はまっすぐに作ってあって、フロッグを取り付けることによる張力で毛を引っ張って曲げており、製作時に曲げているわけではありません。

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フロッグ部分は接着をしているわけではなく、精密に同じ幅の溝がスティックに切られていて、そこにぴったりとはめ込む仕組みです。

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フロッグ部分に毛が通る溝が掘ってあって、フロッグは毛の張力でスティックに押し付けられています。

このように、この弓は毛を緩めるにはフロッグを外さないといけません。また、好みの張りにするにはフロッグと毛の間に木片や折り曲げた紙などを挟むなどの方法でより張るようにするか、フロッグそのものを違う大きさのものに交換するしか調節が出来ません。

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このようにルネサンス時代の糸で縛る弓よりは発展していますが、それでも扱いやすいとは言えないものでした。

そこで、毛を直接フロッグに留めて、そのフロッグを動かせば緩めるのも張るのも自由自在になる形に改良されていきます。

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バロック初期の弓:赤丸が毛を留める位置

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毛をフロッグに留めてフロッグごと動かすことで張りを調節する

まず作られたのは、スティックにいくつか刻みを入れておいて、フロッグを紐などで引っ張ってその刻みに引っ掛けるというものでした。

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引っ掛ける刻みの位置を変えることで張りを調節

ただ、これだと持ち方によっては小指が刻みに当たって嫌なのと、細かい張りの調節は出来ません。

そこで、スティックに穴を開けてネジを差し込んでフロッグとつなげ、ネジを回すことで調節できるようにしました。(つまり、現代の楽弓と同じ仕組み)

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バロック後期にはこの構造の楽弓が現れ、ストラディバリの遺品や博物館に残されたものにもネジで調節する楽弓が残っています。

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ただ、この楽弓をストラディバリ本人が作っていたか、弟子が作っていたか、はたまた外注していたかどうかははっきりしていません。ですが、残された作りかけのものやテンプレートなどから、ストラディバリは楽器と一緒に楽弓やケースを含めたセットで販売していたのは間違いありません。

そして注目すべき所は他にもあります。ストラディバリの楽弓は現代の楽弓のようにヘッドが毛の方に曲がっている上、中心部分も毛の方へ湾曲しています。

それまでの楽弓は真っ直ぐに作られたものを弧を描くように毛を張っていました。しかし、ストラディバリの楽弓はスティックを毛の方に湾曲させることによって、毛を張ったときに真っ直ぐになるか、若干の弧を描くようになります。

これは毛に与える張力を多くすることと、スティックを毛と平行に近づけることでスティックを動かす力の向きと毛の動く向きを同じ方向にしたかったからではないでしょうか。

これによって、弦を強く押さえる力に対応出来るようになり音量を増大させられることや、素早い動きにも反応しやすくなります。

ストラディバリの晩年は時代が古典派へと移り初めた時代です。

ここから音楽は貴族のたしなみから大衆の娯楽へと移行し、音楽形態も複雑化していきます。
そんな時代の要求から、楽器と同様に楽弓も変化していくことになります。

楽弓の完成形へ

フランソワ=ジョゼフ・フェティス(F. J. Fetis)というベルギーの音楽学者(作曲家・音楽教師)が「Antoine Stradivari luthier célèbre」という著作の中で、17・8世紀における楽弓の改良を表した絵を載せています。

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F. J. Fetis:Antoine Stradivari luthier célèbre

楽弓の下にはそれを使用していた代表的な演奏家とおおよその時代が書いてあります。

この絵に照らし合わせると前回まではCORELLIまでを説明していました。

「ラ・フォリア」とか「クリスマス協奏曲」のアルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli)です。

次のTARTINI(ジュゼッペ・タルティーニ:Giuseppe Tartini)は「悪魔のトリル」を作曲した人です。
だんだんスティックが長くなり、一回の運弓で長く弾くことが要求されたことがわかります。

この頃までの楽弓はヘッド(スティックの先端部分)の形が尖った形をしていて、「パイクヘッド」と呼ばれます。「パイク」とは、15世紀から17世紀にかけ、歩兵用の武器として幅広く使用された槍の一種のことで、その槍の穂先に似ていることからこう呼ばれています。

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Pike(パイク)

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パイクヘッドの楽弓

CRAMER(ウィルヘルム・クレイマー:Wilhelm Cramer)はドイツ出身のロンドンで活躍したバイオリニスト兼指揮者です。

彼が使った楽弓はヘッドが「ハチェットヘッド」と呼ばれるものです。

ハチェットとは手斧のことです。

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Hatchet(ハチェット)

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ハチェットヘッドの楽弓

イギリスでこのタイプの楽弓を製作した製作者が複数います。特に有名なのはロンドンの楽器製作家エドワード・ドッド(Edward Dodd)で、クレイマーはおそらくこれらの楽弓を使用していたのではないでしょうか。

しかし、ここまでの楽弓は演奏時の毛を張った状態の時、スティックと毛が平行になっているものです。

それが、現代の様に演奏時でも毛の方に凹んでいる形にしたのが最後のヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti)の使用していた楽弓です。

この逆反りのスティックは今までの楽弓と違い、運弓時の跳ねを少なく出来る利点がありました。

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楽弓のフロッグ付近を持って弦の上で動かす時に、膨らんだスティックでは上向きの力が自然とかかるような構造だったが、逆反りのスティックでは下向き(弦側)に力が自然とかかるようになるので、楽弓が弦の上で跳ねにくくなった。

実はこのタイプの改良点がほとんど同じ楽弓を、ほぼ同時期に製作した人物が2人います。

一人は先程名前が挙がったロンドンのエドワード・ドッドの息子である、ジョン・ドッド(John Dodd , 1752-1839)。

そして、もう一人が「楽弓のストラディバリ」と呼ばれている、パリで製作していたフランシス・トルテ(François Xavier Tourte , 1747-1835)です。

ドーバー海峡を隔てたパリとロンドンという地で、ほとんど同じ楽弓を二人がたまたま同時に思いついたとは考えられません。しかも当時はイギリスとフランスで第2次百年戦争を行っていたため、彼らが直接交流を行うのも難しかったと思います。しかし、ある人物が二人と交流があった可能性があります。

それは、ヴィオッティです。

ヴィオッティは現在のイタリア、ピエモンテ地方出身のバイオリニストで、始めはフランス宮廷で活躍しましたが、フランス革命や戦争のせいでパリとロンドンを行ったり来たりして音楽活動を行うことを余儀なくされました。おそらくそのときにトルテとドッドそれぞれに楽弓を見せていた、または製作を依頼していたのではないかと思われます。

そして、一説によるとヴィオッティとトルテが共同研究してこの形にしたと言われています。

そのトルテは楽弓の形だけでなくフェルナンブーコという、楽弓にとって最も適した素材を見出し、スティック以外の改良も数多く行い、楽弓を楽器本体と同じレベルの工芸品まで押し上げたと言っても良い人物です。

楽弓のストラディバリ

楽弓のスティックがどの様に発展していったかを見てきましたが、それを最終的に現在の形に改良したのがフランシス・トルテと言われています。

彼の楽弓はまるでストラディバリウスのように、彼と同時代の製作者や後世の製作者達が手本にし、史上最高の楽弓として認知されることとなります。そして、誰ともなく彼のことを「楽弓のストラディバリ」と呼ぶようになりました。

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François Xavier Tourte

しかし、彼の父 Nicolas Pierre Tourte はすでに弓製作者だったので、そのファミリーの始祖であるストラディバリとは製作者としての経緯は少し違います。しかも彼は2人兄弟の弟で、当時は父の商売を継ぐことは年長者にその特権があったために、彼は初めは時計職人に徒弟奉公しています。

兄が16歳で早逝し家業を継ぐ事になりましたが、それまでの8年間を時計職人としての仕事に費やしていたので、結果的にその経験は細かな金属加工においてのみならず、各部分の精密さや正確な調整においても疑いなく役立っていたと考えられます。

当時は近代的な計測器はありませんでしたから、スティックの手元から先までの直径の変化に関しても多くの実験の結果や経験則からであったに違いないでしょう。すべての弓をまったく同じ様に繰り返し製作し、正確で優美な寸法で彼が作り上げたのは、手の技術と目の正確さだけにたよっていたはずです。それでも、彼のスティックの直径は手元から先端にわたって均一に減少していて、この正確さは後に研究者が数学的方則を導き出す事が出来たほど正確でした。

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J. B. Vuillaumeによって導き出された、トルテ弓の幾何学的作図によって得られるスティック直径の減衰率

また、彼はスティックに最も適した木材の実験を行い、その重量、弾力性、強さ、組織のきめ細かさから、フェルナンブーコが弓のスティックに最も適していると発見しました。
当時フェルナンブーコは赤色を作り出す染料の原料としてブラジルから輸入されており、彼はそのフェルナンブーコ材の中から繊維の歪みや節の無い良い材料ばかりを使って製作していたと言われています。

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François Xavier Tourte : Violin bow
 BOWS FOR MUSICAL INSTRUMENTS of the Violin Family

彼がその研究において、パリに住んでいたり滞在したりするバイオリニスト達のアドバイスや助言に影響を受けていたことはまず間違いなく、先ほどお話したとおりその中には1782年から1792年の10年間をパリで生活したヴィオッティがいたと言われています。

その後、ヴィオッティは1792年にフランスを去ることを余儀なくされ、ロンドンに定住したので、その時にトルテの楽弓を何本か携えていたのは間違いなく、同時代のもうひとりの製作者でトルテに並び称されているジョン・ドッドはそれを見たのではないかと思われます。

English Tourte

ジョン・ドッドは楽器製作者エドワード・ドッドの長男で、イギリス最高の楽弓製作者と言われています。彼は「English Tourte」と呼ばれていて、彼の最高の作品はこの呼称の正しいことを証明していますが、彼はしばしば楽弓を急いで作って安く売るようなことをしていたため、品質の良くない楽弓も多く見られます。

彼は変わり者につけ加え、秘密主義で弟子をとりませんでした。彼の秘密の技法を千ポンドで買い取るという提案があったそうですが、彼は断固として断ったという逸話もあるくらいです。そのため、彼が奇妙な構造の二重の鋸で粗末な板からスティックを切り出しているのを見たと伝えられていますが、この方法は他の楽弓製作者には伝えられていません。

「THE BOW, ITS HISTORY, MANUFACTURE AND USE」の著者で作曲家でもあったセントジョージは「私はそのような無口で秘密主義の気質の男が、他のメーカーの作品をコピーするといった容易な方法を採用しただろうとは思いません。」と言っています。しかし、私は逆にそういった人物だからこそ、自身のプライドといったものに無頓着で、技術の向上になるためなら良いものは積極的に取り入れて行ったのではないかと、製作家としての観点から考えます。

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John Dodd : Violin bow
BOWS FOR MUSICAL INSTRUMENTS of the Violin Family

こうして、フランスとイギリスは彼らのおかげで「楽弓製作のルーツであり、製作地のメッカ」として世界に君臨することとなったわけです。

フランスはその後、製作の中心はパリからミルクールへと移っていき、その地で多くの楽弓製作者が活躍していくこととなりました。

フランス製の楽弓は今でも最高級品として、新作も含め人気を誇っています。

イギリスは逆にその後の製作者数は多くならず、フランスには力負けしてしまいましたが、それでもなお、楽弓のルーツの一つとしてイギリス製の楽弓には根強い人気があります。

この二人の人物像を見ていると、多くの顧客に恵まれ、研究熱心で正確無比に楽器を製作したアントニオ・ストラディバリと、生活に困窮し、荒々しい中にも美しい楽器を残したバルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ(デル・ジェズ)の様な関係に似ているなと私は思ってしまいます。

出典・参考文献
Eric Blot Edizioni Simone Fernando Sacconi著 「THE "SECRET" OF STRADIVARI」
Leopold Mozart著 「Grndliche Violinschule 」
Fondazione Museo del Violino Fausto Cacciatori監修 「Antonio Stradivari disegni modelli forme」
François-Joseph Fétis著 「Antoine Stradivari luthier célèbre」
W. Lewis; Library ed edition JOSEPH RODA著 「BOWS FOR MUSICAL INSTRUMENTS of the Violin Family」
"The Strad" Office Henry Saint-George著 「THE BOW, ITS HISTORY, MANUFACTURE AND USE」
Wikipedia
  Villu
  Musical bow
  Berimbau
  Rebab
  Viella
  Lira da braccio
  パイク
  Hatchet
  François Tourte

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