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意味がわからないのにわかる 古典の朗読読み

先日の模擬授業は、古典。「仁和寺にある法師」を扱った。
授業者は、最初に範読をした。
読み間違いなどもあったが、範読をするということは大事なことである。
まず、教師が正確に読まなければならない。

範読には二種類ある。
音訳と朗読である。

私は物語や小説は、音訳で読むべきであり、朗読で読むべきではないと考えている。
音訳というのは、書かれている文字を音に置き換える読み方である。


読むというのは、最小単位の解釈である。
だから、読み手がそこに書かれている内容をどう理解したのかが伝わる。その理解の様子を伝えないようにして読むのが音訳であり、ここを豊かにして読むのが朗読である。

小学校では、教師が物語に書かれている文章を、教師の理解とともに読む。朗読読みが必要だろう。「ごん、お前だったのか」というセリフを疑問で読むのか、詠嘆で読むのか、疑問と詠嘆の混ざった具合で読むのか。これを教師の読みで示す。だから、朗読読み。

しかし、中学校では音訳で読む。「ごん、お前だったのか」というセリフを疑問で読むのか、詠嘆で読むのか、疑問と詠嘆の混ざった具合で読むのか。これを生徒に考えさせて、生徒の読みの表現で表させる。だから、教師が自分の読みで読むことはしない。

私が中学生の頃、自分の読みを押し付けてくる教師がいて、私は非常に嫌な思いをした思いがある。だから授業中に範読を聞かないでいたら怒られたが、私は作品を愛するがゆえに聞かないでいたのだ。中学生には音訳で示す必要があると思うのだ。

が、古文は違う。
古文は、朗読で読むべきなのだ。
特に、会話文。

「年比思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」

これを朗読読みでしっかりと読むと「意味がわからないのにわかる」という不思議な現象が起きる。模擬授業後、学生たちの前で「仁和寺にある法師」を音訳読みと朗読読みの二種類の方法でそれぞれ読んで見せたのだが、「意味がわからないのにわかる」という言葉の意味をかなり実感していた。「まるで落語を聴いているようだ」という感想まであった。

読むって、すごいのである。

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