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探究型の学びは、探究型の学びなどとんでもないとすることかも

探究型の学びがこれからは、大切になり必要になってくる。それはおそらく間違いのないことだと思う。知識を与えていくそして身に付けていく学習というのは、情報化社会の中でほとんど意味をなさなくなっていくだろう、人工知能がさらにそれを支えていくことになるし。

では、探究型の学びを学校でやるとしたら、どうなるのであろうか。どうしたらいいのだろうか?

おそらく、現在言われる頭を使う仕事をしている人たちは、学校で教育を受けつつ、自分で勝手に探究型の学びをしていたのではないかと思われる。誰に頼まれたわけでもなく、自分の興味や疑問や必要性や違和感や怒りなどを根っこにして、勝手に調べまとめ体験し調べまとめ考えとしてやってきたのではないかと思う。

そして分かった事とあらたに に分からなくなった事を目の前にして、また勝手に探究型の学びを続けているのではないかと思う。

探求型の学びを学校で取り組んでいる先生たちはこの問題をどう捉えてどうクリアしようとしているんだろうかと、思う。

探究型の学びは、勝手に始めるものだ。そしてずっと続くものだ。なぜならば1つがわかればその先のことがわからなくなるからだ。1つができるようになれば、もっとできるようになりたくなるからだ。私の料理なんてもう50年もやっているし。

これを学校の、または授業のフレームの中にどう落とし込んでいくのだろうか。1学期間とか半年間などの長い時間の中で探究型学習は行われていくことになるだろう。しかしそれだけの時間に耐えうる疑問必要性興味怒りを子供たちは、すべての子供たちは手に入れることが可能なのであろうか。

かつて総合的な学習の時間を支援していたことがあった。自分たちの問いから自分から課題を設定してそれを解決していくんだよ。その結果を発表会で発表してもらうよと言うことで始めた。

これを待ってましたとばかり乗ってくる子供と、全くなんのことかわからないで立ち止まり続ける子供たちがいた。

後者の子供たちには、参考になるテーマなどを示しこういうようなやり方もあるよこういうような風に考えたらどうなのと話していたが、さてそれは探究型学習なのだろうかという思いはいつもあった。

学校教育の中に探究型学習を取り入れる。そうなんだけれども、それで学校で本当にできるのかなあという思いは、このところまた再び顔出してくる。必要なのはわかるけれども、はいやりましょうというのは、本当の探究型の学習なのだろうか?

蓋をしたところから溢れてくる煙のように、何かの枠をはめた時に出てくるのが、探究に値するといなのではないかなぁと思うのだが。

そうだとするとひょっとすると学校は、探究型の学習をしようと設定するのではなく、探究型の学習などとんでもないと設定することが、探究型学習を作り出す生み出す仕組みになるのではないだろうかなどとも思う。

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