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目的、状況を確認して新しい時代の教育を考える必要がある

私が教師になった30年前には、教師の仕事は教えることということは共通して一致していたと思います。そのために、教師は板書を駆使して説明をすることが大事で、板書ができない先生はダメというのがずっと続いています。

それがOHPが出て、パワポが出てとどんどんと黒板じゃなくなり、黒板もホワイトボードになっています。

私は書道をやっていたのもあり、板書の字もかなり練習しました。書道が上手くても板書の字はまた別物です。特殊な技能が必要になります。

しかし、今、大学の授業では板書はしていません。封印しています。
なぜかと言えば、板書をすると書きうつさない学生は書きうつさない。書き写す学生は丁寧に書き写し、それでおしまいになります。
何れにしても考えない。
考えさせなければならい授業なのに、考える事をさせていないということが分かってから、板書をしないで話してメモを取らせることにしました。

板書を綺麗に書くことが、板書の目的になっている先生も多くいます。板書は説明のための補助であって、目的ではない。

だから、板書のゴールは、板書をしないなはずです。

そして、教師の仕事は教えることということも、実はこの板書と同じ構造になっているのではないでしょうか。教師が教える事を目的としてしまっているのではないかという事です。

教師の仕事は教えることが目的ではない。
教師は、学習者を伸ばすこと、育てること、学びに向かわせることが目的だと考えています。そうだとすると、その目的のために一つの手段として、教えるということがある。だから、教えるという事を調整する必要が出てくるでしょう。

中学の教師の時、クラスであまり話さない子供の親御さんと三者面談をすると、親御さんが思い切り話すということは割とよくありました。そして、
「子供が話さないんです」
と相談してくる。
「お母さん、家族の話の総量は決まっています。誰かが話せば誰かは聞くしかないのです」
と話します。

話し続ける教師のクラスでは、子供たちは話さなくなります。
説明のうまい教師のクラスでは、子供たちは自分で考えようとしなくなります。

目的、状況を確認して新しい時代の教育を考える必要があると考えるのです。

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