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「やりたいこと」をめぐって迷走し続けた私が、“あり方”探究会社をつくるまで。【前編】

やりたいことは何?

この問いかけが、私にとってはずっと、とてもしんどかった。

それは、この問いに、「何者かにならなければならない」という強い強い圧力を感じていたから。「何者でもない自分」を否定されているような感覚を覚えていたから。

そんな私が、夫とともに

なにをやるか、よりも、どうあるか

を掲げた株式会社beを立ち上げるまでの人生の歩みを書いてみようと思います。先日書いたこちらの記事の続編というか、完全版みたいなものになるかな。

「私は勉強だけできて、つまらないヤツだ」

子どもの頃から、「やりたいことは?」「夢は何?」と聞かれると、そのとき思いつく職業の中から、「まあ、これかな」と思えるものを答え続けてきました。

小学校低学年のときは、パン屋さん(パン好きだったから)。

高学年になると、アナウンサー(劇でナレーターをやったから)。

中・高時代は学校の先生(父親の職業)。

小さい頃から、真面目だったからか勉強だけはできた私。運動はできないし、アートや音楽のセンスもイマイチ。性格も比較的おとなしくて恥ずかしがり屋で、面白いことなんて全く言えず。

当時の私にとっては、イラストがめちゃくちゃ上手な子や、50メートル走の早い子、軽快なトークで笑わせてくれる子など、何か突出した特技や個性を持つ子たちの存在が、とてもキラキラ輝いて見えました。

私は勉強だけできて、つまらないヤツだ。

ずっとそんなコンプレックスとともに歩んできた気がします。

だから「やりたいことは?」と問われるたびに、「何者かにならなければいけないんだ」という気持ちになり、「何者でもない自分」に焦り、取り繕うように答えを探してきました。本当は「何者でもない」わけではなかったのだろうけど、学校と家の往復で狭い世界しか見えていなかった当時の私にとって、私の中にある“種”のようなものはわかりにくく、自分でも見出せずにいたのです。

今思えば、「やりたいこと」は職業じゃなくても良かったんですよね。お世話になっている方が教えてくれた環境活動家・谷口たかひささんのInstagramにこんな文面がありました。

日本の小学生に「夢」を聞くと、「職業」が返ってくる。「プロ野球選手」、「ケーキ屋さん」、「YouTuber」などなど。だけど今の社会で、「職業」と言ってすんなり通じるものは、さきに生きた人たちがつくったものにすぎない。その中にたまたま自分が「やりたいこと」があればいいが、そうとも限らない。ーーー(中略)ーーー イギリスに住んでいた時、小学生ぐらいの子どもたちに「夢」を聞いたら、「世界中のフライドチキンを食べる」「すべての国を訪れる」「〇〇(アニメのキャラクター)になる」といった答えが返ってきた。どれもいわゆる「職業」ではない。

世界中のフライドチキン、最高(笑)!

以前インタビューさせていただいた兼松真紀さんは、「子どもの頃から本当にただ、プレゼントをするのが好きだった」という自分の原体験を振り返り、まっさらな心で「サンタのよめ」になりたいと思ったそうです。


うんうん、まっさらな心。ただ自分のワクワクを心で感じ取ること。なぜそれが子どもの頃にすでに失われ、「やりたいこと」=「すでにある職業」という方程式ができ上がってしまっていたのか、今となってはわかりません。でも当時の私はそんな考え方を知る由もなく、知っている職業の中からなんとか選び取ることを繰り返していました。

そして厚かましくも「なれそうかな」と思っていた数学の教員を夢として掲げ、大学は理学部数学科へ進学。大学の数学の難しさにすぐに挫折を感じ、そのままモラトリアム期間に突入しました。

大学で教員免許は取得したものの、就職のときは「今しかなれないかも」という理由で当時理系就職の定番だったシステムエンジニアを選び、大手電機メーカーに就職。すぐに向いていないと感じ、わずか2年半で気象予報士の資格を取得して、逃げるように退職しました。

doばかりで評価される世の中に対する魂の叫び

一見順調そうに見えて、「なんとも言えずしんどかったなぁ」と振り返る25歳頃までの私の人生。そのなかで何度か、今思うと私の魂が「しんどいよー!」と叫んでいたのかな、と感じるできごとがありました。

一番強い記憶として残っているのは、大学受験のときのこと。センター試験の成績が良く、志望校もA判定。安心して二次試験への準備を進めていた私に、担任の先生が突然、偏差値の高い大学の受験を勧めてきました。なんだかそれが、私にとってはすごくショックで。

それまでは私の志望校への受験を応援してくれていたのに、急に高校の進学実績を上げるために自分が利用されているような感覚に陥り、強い怒りと反発を感じたのです。それまでいわゆる「いい子」だった私ですが、その先生の言うことを断固拒否し、当初からの志望校を受験しました。

高校の卒業アルバムに、当時から大好きだったMr.Childrenの[es]という歌の歌詞を引用して、こう書いていた私。

「栄冠も成功も地位も名誉も たいしてさ 意味ないじゃん」と言ってしまえる彼らがなんだか羨ましいです。

なんとも青臭くて恥ずかしいですが、高校生の私なりに「何者かにならなければいけない」という社会からの圧力に反発していたのだろうと感じます。

その後も、自分のbe(あり方、存在)ではなくdo(行動、肩書)の部分だけで判断される社会の風潮に強い違和感を感じていたのでしょう。就職活動のときは、それなりに知名度がある大学なのに、敢えて大学名を伏せて面接してくれる採用方法を選択しました。就職先も誰もが知る大企業でしたが、プライベートでは敢えて隠して暮らしていたように思い返します。

私のdoじゃなくてbeを見て!

と、必死で叫んでいたのかな。どうなのかな。

何者でもない私に「安心」と「冒険」をくれた出会い

電機メーカー退職後、気象予報士の資格だけを持ったフリーターの私に手を差し伸べてくれたのは、あるCS放送局の気象専門チャンネルの方々でした。気象関連イベントで知り合い、私の現在地を理解した上で「一緒に働こう」と言ってくださって。会社自体は別ジャンルのチャンネルがメインで、お天気チームはたったの8人。その小さなチームに仲間入りさせていただきました。

天気予報をするのではなく、天気チャンネルのコンテンツ企画や広報を担当するようになった私。一時期は、気象予報士なのに予報をしていないことに対してコンプレックスを覚え、またしても「何者でもない」感覚に悩まされました。でもそのときのチームのみんなは、そんな私を認め続けてくれたのです。

ちょっとしたことでも、「すごい」「仕事できる」「その歳の頃の自分じゃできなかった」なんて、なんだか恥ずかしいほどに私のdoの部分をまず褒めてくれて。その上で、まるごとの私、私のbeを受け入れてくださっていた。失敗しても、ダメダメなときの私も、決して否定せず、「大丈夫大丈夫」と言ってくれて、一緒に悩んでくれて、ホームとなってくれていたみなさん。

先日、ある方へのインタビューで、

「安心」というベースがあれば、自然に「冒険」がはじまる

という言葉を受け取りましたが、このときの私は、まさにそんな状態だったのでしょう。そんな安心感の中で少しずつ、長らく心の深いところでくすぶっていた「私自身」みたいなものが、むくっと顔を出すようになってきました。

仕事のパートナーとして出会った地球環境問題に取り組むNPOとの出会いから、クリエイティビティをいかした社会課題の解決にぐいぐいと心が惹き込まれ、取り組む人々の活動や声を届けるメディアgreenz.jpに出会いました。greenz.jpのサイトを初めて見たときの心境は、

「わけもなく心惹かれる」って、こういうことか!

という感じ。妙にドキドキし、その世界に触れたいと願う一心から、メディアでの執筆は未経験なのにライターに応募。運良く採用していただき、気象の仕事の傍ら、寝る間も惜しんで記事を書く日々がはじまりました。人生でこんなにも心惹かれるままに能動的に動いたのは、おそらくこのときが初めて。自分でも驚くほどのパワーを発揮して、週2本というハイペースで短い記事を発信するようになりました。

忘れもしない、無記名時代に最初に書いた記事が、これ。(おはずかしい〜!)

ここでまた、素性もわからない会社員ライターの私をまるごと受け止めてくださる方々に出会いました。greenz.jp編集部の皆さん。当時は立ち上がって3年目でまだ知名度もなく、外部ライターは5人ほど。2週に一度ほど、平日夜に小さなオフィスに集い、まだ「ソーシャルデザイン」なんて言葉が知られていない社会にどうやって問いを投げかけようか、なんて熱い議論を交わしていたことを思い出します。

編集部のみなさんは、私の拙い記事をなぜかやたらに褒めてくださり、興味関心分野を聞いてくれて。でもまだ私の関心が定まっていないとわかると、次々に新たな世界へ導いてくださいました。

そんななかで、人の「あり方」に触れるインタビューをたくさん経験させていただいたのですが、長くなってきたので、続きはまた後日。【後編】では、いま私の大切なライフワークとなっているインタビューを通したさまざまな「あり方」との出会いについて書いてみたいと思います。

貴重な時間を割いて読んでくださったこと、感謝申し上げます。みなさんの「スキ」や「サポート」、心からうれしく受け取っています。