池田航介の生い立ち~あの日の記憶を忘れないために①~

私は1997年6月29日 三人兄弟の真ん中、長男として生まれた。
私が生まれた池田家は割と歴史が長く、「池彦」という会社を代々受け継ぐ伝統を重んじるような家だった。初代は江戸時代までさかのぼり池田彦七さんという方が最初は配達業か何かで「池彦」を創った。それだけはよく聞かされたが二代目からはなにをしていたかはよく知らない。
五代目のひいおじいちゃんが沼津の選挙にでたとかでないとか、六代目にあたる私の祖父が建物を10個以上創り池彦を大きくしたとか、
七代目の父がバナナを研究し特化したとか色んな池彦の歴史というものを毎日聞かされて育った。それで私は長男なので八代目の期待と共に生まれたわけだ。私の小学校の時の記憶の中では父はとても厳しい人だった。小学校の成績表で△なんてとってきた日には、(確か音楽)めちゃくちゃ怒られたし、テストでひどい点数を取ってきた日は血相を変えて怒鳴れたし、今でも覚えているんだけど、私が誕生日の日になんか浮かれていて父に対するマナーを欠いたとかで父の機嫌が悪くなり、誕生日なのに全く祝ってもらえなかった。父は会社が早いため、19時には寝るのだが、夜弟と喧嘩をしてごらん、弟の晃が泣いて父が起きてスリッパで歩く足音が聞こえてきたときに恐怖よ。
沼津の祖父母の家に行くと毎度祖父の経営論や人生論をひたすら聞かされていた。祖父は地域にいわゆる進学校沼津東高校でTOPの成績をもっており(本人曰く)、一橋大学をでている。基本その自慢話的がほとんどだ。しかし、たまに革新をつく確かなことを言うし、祖父は色んな世界を見てこいとか行動が大事だとか学べと言っていたが、今思えば祖父や父の話のおかげで自然と経営者としての思考が成熟していったのかもしれない。
けど下手に質問をするとどつかれ、話が長くなるので基本的に質問はしない。心の中で反論したり、自分の意見を言ったりするだけ。
実は私の中の座右の銘の一つは祖父からもらった言葉だ。
「知識よりも見識、学問よりも人格を尊び、人材よりも人物の養成を」
小学生の時にもらった言葉だがこの言葉はずっと私の中に残っている。

一方母方の家計は沼津の家計とは大違いだった。
母は兵庫県宝塚市で育った。春休みや夏休みの長期の休みになると母の祖父母の兵庫の家に訪問するのだがその時、私たち3人兄弟は常にウキウキだっていた。宝塚の家は厳しい家から解放されるような気分だったからかもしれない。
父は基本的には仕事があるのでついて来ない。母と兄弟3人で新幹線に乗って大阪まで移動して兵庫の祖父母の家までいく。宝塚の祖父母の家は古い木造の一軒家で、懐かしい良いにおいがしている。そしておじいちゃんとおばあちゃんはいい意味でとてもてきとうだった。勉強なんてせーへんでいいよとか、そんながんばんないでもええんやで、だったり
沼津の家が「伝統」と「規律」を重んじる家だとすれば、宝塚の家はまさに「自由」だった。勉強だとか成績だとか学歴だとかはいわれることはない。長期休みになると宝塚の祖父母の家に行ってキャンプに行く、自然の中でおもいっきり遊ぶ。
父は成績もマナーもとても厳しい人、それとは反対に母はいつでも優しかった。成績が悪くても怒られたことはないし、習い事でも遊びでもなんでも応援してくれたし、私たち兄弟にとっては間違いなく心の支えだった。

母はなんでも包み込むような優しさを持っていたし、私たちのことはなんでも知っていた。
小学校のグランドでみんなでサッカーしているときも
タコ公園でケイドロにはまっていた時も、実はこっそり通ってみていたし
中学校で初めて携帯(ガラケー)をもって同級生の女の子と付き合っていたときそのやり取りも、全部見ていたらしいw
でも言うことはなくこっそりといつも見守っていた。

今思えば父と母はよく結婚したなと思うくらい性格も家も正反対だ。
私はといえば、性格は圧倒的に母似だ。おとなしく、穏やかで争いごとを好まない。若干ヤンキーな父方の家計からすると、こんな優しい人間が経営者になんてなれるのかと心配されていたらしい(今でも)
けれどたしかに私の外面的な性格は母似だ。けれどリーダーシップや行動力は完全に池彦の家計なのではないかと思っている。


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