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『はて知らずの記』の旅 #13 宮城県・塩釜、松島(二)
(正岡子規の『はて知らずの記』を頼りに、東北地方を巡っています。)
日本一の涼み
まずは五大堂へ行った。
五大堂に詣づ。
小き島二つを連ねて、
橋を渡したるなり。
橋は、をさ橋とて、
をさの如く、
橋板、疎らに敷きて、
足もと危く、
俯けば、水を覗ふべし。
「筬(おさ)」とは?
――織機の付属具。竹または金属の薄片を櫛の歯のように並べ、枠をつけたもの。
以前来た時も渡ったはずだが、まったく記憶になかった。
知らなければ、「工事中で未完成なのかな?」と思ってしまうだろう。
下が干上がっているとそうでもないが、潮が満ちると高度感が増すのが不思議だ。
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続いて瑞巌寺の前まで行った。
端正な参道が真っ直ぐに伸びていた。
ここには外国人観光客が多かった。
中には入らなかった。一度見たことがあるし、拝観料七〇〇円はチト高くないかい?
円通院なる寺の前を通って海沿いに戻った。通りを一本入ると、こんなにも静かなものか。途中、切通しのような地形を過ぎ、鎌倉に似ていると思った。松島は〝東北の鎌倉〟か。
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雄島に向かっている。
雄島には行ったことが無かった。存在を知らなかったと云う方が正しい。
雄島に遊ぶ。
橋を渡りて、
細径、ぐるりとまはれば、
石碑、ひしひしと並んで
木立の如し。
名高き座禅堂はこれにや、と思ふに、
傍に怪しき家は、何やらん。
初出では「誠に駄句の埋葬場なるべし」とも書いていて、「駄句の埋葬場」を見てみたい、と思ったのだ。
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宮城県松島離宮なる観光施設(ここにあった松島パークホテルに昭和天皇やアインシュタインが泊まったらしい)を過ぎて、奥へと進んだ。
人はますますいなくなった。
山登りでも始まりそうな径に入りしばらく行くと、穏やかな磯に出た。
渡月橋という京都にでもありそうな真っ赤な橋が架かっていた。
雄島は細長い小さな島だった。
八の字状に径が切られていた。
座禅堂は八の字の中央付近にあったが、崩壊の過程にあるのか、立入禁止のロープが張られていた。
島の南端に出た。ここにも何やら「怪しき」堂が建っていた(後で確認したら頼賢碑の鞘堂)。
風が抜けた。海面で冷やされた空気が上って来るのだろう。
あずまやのベンチに腰を下ろして、シャツの中に風を通した。
「駄句の埋葬場」を探したのだが、埋葬場というほど大量の句碑は無かった。
石碑は所々に突き刺さっているのだが、そこに書かれてあるのが俳句なのか何なのか、自分には読み取る能力が無かった。
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観瀾亭に向かった。
正岡子規が、豊臣秀吉と伊達政宗のバーチャルな会話を妄想した場所である。
観光エリアのど真ん中にあるが、意外にも人の姿は少ない。観覧料二〇〇円が効いているのか?
それほど大きな建物ではなかった。
見たところ二間だ。
右は畳敷きの喫茶スペースになっており、西洋人女性客が二人、英語で会話していた。
左は豪華な金箔貼りの部屋になっていた。
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廊下に座して見渡せば、
雄島、五大堂を左右に控え、
福浦島、正面に当り、
其他の大島小嶼、錯伍して、
各媚を呈し、
嬌を弄す。
自分も靴を脱いで廊下に座してみた(後で係員の中年女性に追い払われてしまったのだが)。
松島で最高の立地はここだと思った。
それはそうだろう。時の最高権力者が接待用に造った迎賓館のようなものだから。最高でないはずがない。
ここにも風が吹いていた。最高の眺めから吹き込んで来た。
そこで思い出されたのは、旅立つ子規に贈られた次の句だ。
松島で 日本一の 涼みせよ
これこそ日本一の涼みに違いない。
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松島海岸駅から再び仙石線に乗った。
松島に富山観音という眺望スポットがあることを、『はて知らずの記』を読むまで知らなかった。
手樽駅を過ぎた辺りから窓の外を注意して見た。あれかな? という寺院の一部らしき大きな建物が山の中腹に見えた。
しかし、それほど高い位置にあるとは思われなかった。あの程度の高さから海が見えるものだろうか。
陸前富山駅で下車した。他に下りた客は一人もいない。
駅前の淋しい集落を過ぎて、観音の山を目指した。
周囲には松島みたいな地形が見られた。松島みたいな地形は陸にもあるのだ。それが水に浸かると松島になり、水が引くと、引いたところは人手によって田に変えられてしまうのだと思った。
観音への入口を見つけた。
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径は樹の陰に入った。
ああ、これが木下闇(こしたやみ)か、と思った。
俳句のことはよく知らないが、子規が「木下闇」を連発しているのだ。
その意味がわかった。
ありがたや、木下闇。
以後は木下闇を探して歩くようになった。
徒歩三〇分くらいだろうか、山の頂に出た。
藁葺きの仁王門と、赤い小さな堂が建っていた。
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脇に展望デッキがあり、そこからだけ、風が天然の扇風機のように吹き込んでいた。
肝心の眺めは?
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うーん。海まで少し遠くないか?
しかし高さは十分で、湾を囲む島の外の海まで見えた。だから松島湾全体を視界に収めた、というある種の観念的な満足感は得られた。
(追記)それにしても正岡子規も書いている明治天皇巡幸の名残が何も無いな、と不審に思っていたら、どうも観音堂のすぐ下に大仰寺の別の建物があって、有名な展望スポットはそこらしかった(電車から見えたのがこれだった)。読み返してみると、正岡子規が見た景色もそこからのもののようだ。下調べ不足だった。もう一度行くか? でも暑い日の山登りはもうしたくないな(笑)。
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本日の旅行代
丸文松島汽船 芭蕉コース 一三五〇円(クーポン適用)
観瀾亭 拝観料 二〇〇円
自販機ペットボトルの冷たい飲料 一〇〇円
合計 一六五〇円
※前日に続き仙台まるごとパスを使用
(次回に続く)
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