くろたん一首評(20221016)

懇願は聞き入れられることはなく
      バス通りと呼ぶにはあまりにも細い道だった

バスのうた / 戸似田一郎

(原文が、改行を含む歌で、コピペしただけなのですが、スマホで見ると歌が不自然に分断されて見えるかもしれません。)
本気で懇願、してないでしょう、って勝手に決めつけて思って、なぜかといえば、「聞き入れられることはなく」の他人事感というか、はじめからあきらめているものを、懇願と呼ぶべきか、よくわからないけど、とにかくなにかこの人ははじめから諦めていると思う。バスの大きさに道幅は対応することは、ない。それは世界がはじめからそうなっているからで、たぶん、見た目には、道がバスを受け容れていながら、むしろバスが道の細さを受け容れざるを得ない、そこに、あきらめを見ながら、歩いてる。この「だった」は、回想?と思うと、自分はもっと体感があるような気がして、なんか、歩いてるな、と思う。歩くというのは、少しずつ道を過去にしていくことに他ならなくて、景色も流れていく、その体感と、あきらめの親和性にも、身に覚えがあるような。
(追記:歩くこととあきらめの親和性とはつまり、歩くことが絶えず自分がそこから立ち去っていくことを伴うからだろうか、と思う。)

横山未来子の話もしようかと思ったんだけど、いくつか引用で並べて、何を言えば・・・と思ったので、まだ早かったのかもしれないが。

裸足にて過ぐす宵なりひとつづつ空を伝ひて花火ひびき来

横山未来子「とく来りませ」

正直、ぜんぜんこれじゃなくてもいいというか、多分どの歌を引いても、同じ話をするのだけど。花火とは「ひとつづつ空を伝ひてひびき来」るもの、なのはそうだけど、「花火きこえる」の認識を、これだけスローモーションに捉えるのって、なにが起きてるんだろうかと思う。言ってしまえば、対象への凝視が、このような認識を生む、とは言えるだろうし、またこの歌の実感の裏打ちとして、花火の「ドーーン…」は、光に遅れて届く、そのずれによって、音がする、よりも、「音が空を伝わってくる」ということにもなるのだが。
スローモーションは、いつか限りなく、停止に近づいて。

毛羽だちて雪浮かびゐる空間を地にとどまれるわれは見てをり

横山未来子「とく来りませ」

(僕はここで、なるほど時間スピードを緩めるとこういう歌ができるのか、とか、思ってしまう。いまためしに、アパートの外で鳴く虫の声に耳を澄ませてみても、なにかできるものではない、のだけど、こういう自分だから、歌の評って、うんざりもする。きっと自分には見えていない感動がここにはあって、それは、自分には見えてない。のに、いい歌なのは分かる、分かってしまう。)

分かる、ってなんだろうか、という不安は常にあり、それでも、この「雪」は、別に、時間をとめたからいい歌になったんじゃない、と思い直してみる。
よく読めば、この歌における主は雪ではなく、むしろそれを「地にとどま」って「見ている」われが、ここにいることそのことへの、新鮮な感動、だと思う。
空から、無数の雪が舞い降りてくる。そこへ視線をのばすとき、歌人的感性(?)なるものが意識的に雪を止めたのではなく、おそらくは、実際に「止まって見えた」のだと思う。(もしかしたらそれは、雪が静止してみえるほどの「打たれるような」感動、だった。)そして、この感動はきっと、この世に「われ」が存在することへの、根源的な問いに、通じている。




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