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歌集じゃないけど

また短歌の話がしたい。
オンライン短歌市で出てたネプリを中心に読んでます。

十年ぶりに書き足した詩のルーズリーフを海と平行にして差し出す/小俵鱚太

※訂正
後日、指摘をいただきまして、こちらの歌、正しくは「十年ぶりに書き足した詩のルーズリーフを海と水平にして差し出す」でした。申し訳ありませんでした。そのため、以下の評も間違いが含まれています。僕の読解に大きな変更はないと判断したため、このまま残します。頭のなかで訂正しながら読んでいただければ幸いです。

後半が好きだった。「海と平行/にして差し出す」という切れかたで読むことになると思う。若干句またがりっぽくて、「平行にして」で韻律が平らになる。これほんとに平行だなあって感じが出てる。シート状のものが差し出される感のある韻律。おもしろい。書いてて、そういえばこれ僕もやったことがある、と思い出した。

どんぶりの横にツイッターを置いてテーブルと平行にすべらせる/くろたん

平行句またがり。はい。
「十年ぶりに書き足した詩のルーズリーフ」は、十年ぶりとかがわざとらしい気がするんですけど、でも後半での描写が抑制されているぶん、押し付けっぽくなくて楽しめた。
そういえば「ルーズリーフ」って、実物に対して名前がすてきすぎるな。短歌によく出てくる気がします。

桃は種のまわりの肉が好きなのと黒目ひからせながら振り向く/草薙

これもやっぱり、韻律が効いてると思う。「黒目ひからせ/ながら」ここに句切りがあるにはあるけれど、語同士の結びつき的に、一気に読むことになる。本来の句切りで切らせてくれない。それがそのまま、読者それぞれが浮かべる「振り向き」のスピードとして感じられる。迫力がある。読み終えた瞬間、顔がこちらを向いてないですか。
前半の台詞と後半の描写のかかわり合いもおもしろいですね。なんとなく果実の種は眼球を想像させる気がする。前半の台詞を言われてから見る黒目は、肉体としての側面、柔らかさとか、丸みとかが生々しく感じられます。これ「まわりの“肉”」がキーだなというか、そこが前後をつなぐ橋になっていると思う。

ショッキングピンクのひとが ショッキングピンクの服を着たひとがいる/水城鉄茶

これはオンライン短歌市のネプリというか、同じようなタイミングで公開された水城さんの短歌研究新人賞応募作「みずたまり」のネプリから。
僕はこういう認識の話に弱い。笑
たしかに最初は一目みて「ショッキングピンクのひとだ」という認識になりますよね。で、一瞬あってから、ピンクなのは人ではなくて服なんだよな、と当初の認識に対してひとつ階層が上の理性が解釈をして、修正を加える。わかるなぁ。でも、事実にちかいはずの後半よりも、前半の認識のほうが感覚としてはリアルです。それを示すのには前半だけではダメで、後半と対置されることでそこに気づかされる。
あとこれ変なのは、一字あけはあるんだけど、どうしても「ショッキングピンクのひとがショッキングピンクの服を」という一文として読まされてしまうところ。主格「が」が二回出てきて、そこまできて、あぁこれは言い直しなのか、と気づくんだけど、文を読むときって先を予測しながら読んでいるから、予測が裏切られると一瞬で前までもどって修正しなきゃいけなくなる。そこでなんか文がくにゃ~んって頭の中でねじれていく感覚がきて、それはなんか「ショッキングピンクのひと」→「ショッキングピンクの服を着た人」のときの修正の感覚と対応していると思う。
同じ作者のもう一首。

売るわけじゃないけれどおもちゃを洗う トーマスの顔つやめいている/同

「売るわけじゃないけれど」のとこの、主観がねじ込まれてる感じがおもしろい。
別におもちゃを洗うタイミングって売る前だけじゃないだろと思うんだけど、初句からいきなりこの人独自の思考が提示されて、それが歌のリアルな手触りになっている。ちゃんと読むとつじつまも合ってきます。読者としては、じゃあなんで洗うんだよ、と思うんだけど、おそらくはなんとなく洗いたくなっただけで、とくに目的なく洗ってる。だからこそ、洗いながら「ふつうこういうの洗うのって売る前とかだよな」みたいなふうに思考がいく。そういう瞬間の歌だと思う。
プラスチックが濡れたとき特有の「つやめき」の描写とか、細かいところが行き届いているのもすごくいい。
そんなに意味のないことをしてるときじゃないとこの「つやめき」には心が止まらないと思うんですよね。日々、たくさん歌を読んでますが、これはここ最近では抜群に好きです。

つかれたので今日はこの辺で終わります。

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